*シュヴァルツコップ モーツァルト オペラ・アリア集 -出合いの旋律-
若い頃からモーツァルトの音楽が好きで、モーツァルトを聴き続けてきました。
それで、少しずつLPレコードやCDを集めて聴いて来たら、20年程前に、モーツァルトの作曲したと言われている音楽の全てをほぼ聴き終わりました。
モーツアルトのLPやCDは、今でも3百枚ほどは手元にあると思います。
お気に入りの曲は、いろいろな演奏で繰り返し聴き続けてきました。
その年代その年代で、またその時その時で、それぞれモーツァルトの音楽との出合いがありました。今回は、その中から、シュヴァルツコップのモーツァルトです。
このレコードは、シュヴァルツコップがモーツァルトのオペラのアリアを歌ったもので、録音は1952年のモノラル録音。ちょうど私の生まれた少し前の録音で、シュヴァルツコップの清楚で美しい歌声が聴かれます。
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
フィルハーモニア管弦楽団 ジョン・プリッチャード(指揮)1952年録音
*動画「恋とはどんなものかしら」
<曲目>
・とうとう嬉しい時がきた・・・恋人よ早くここへ~歌劇「フィガロの結婚」第4幕より
・恋人よ、さあこの薬で(薬屋の歌)~歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第2幕より
・愛の神よ、みそなわせ~歌劇「フィガロの結婚」第2幕より
・恋とはどんなものかしら~歌劇「フィガロの結婚」第2幕より
・いいえ違います・・・私はあなたのもの~歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第2幕より
・自分で自分がわからない~歌劇「フィガロの結婚」第1幕より
・そよ吹く風~歌劇「イドメネオ」第3幕より
・ぶってよ、マゼット~歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕より
・楽しい思い出はどこへ~歌劇「フィガロの結婚」第3幕より
このレコードについて、故吉田秀和氏は、次のように述べています。(「レコードのモーツァルト」)
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ある時、私たち夫婦ほ東京にしばらく住んでいるヴィーン育ちの女性に夕食によばれた。・・・・・
別の椅子にうつって、くつろごうとしたら、だれかがレコードをかけ、そこからこのシュヴァルツコップフの歌うモーツァルトのアリアがきこえてきた。私たちは、みんな、声も出なくなった。ただもうきくほかない。
その時、気がついてみたら、この家の女主人の目に涙がたまっているのだ。彼女はただひとこと「ああ、ヴィーン!」というだけだったが、それで何を言おうとしているか、みんなに、即座にわかった。
そういうレコードで、これは、あるのだ。
私には、このレコードは、だからシュヴァルツコップフをきくレコードであると同じくらい、いや、それよりも、もっと、いちばん美しいモーツァルトをきくレコードであり、その上に、今はほとんど失われかけている、しかし、かつてはひとつの確乎たる姿で実在していたひとつの文化の象徴のようなものとして、全く、かけがえのないレコードなのである。
シュヴァルツコプフの歌は、本当はアリアよりもリートの方がよいのかも知れないような気がするが、そういうのがすでに、オペラのステージの歌い手たちの少々大味な歌いぶりに閉口している私の偏見なのだろう。シュヴァルツコプフできく時、モーツァルトのオペラのアリアは、シューベルトやシューマン、ヴォルフに少しも劣らない、織細と真実の芸術になる。
スザンナのあの庭のくらやみで歌う歌、この世の中に存在するものの中でいちばん素敵なた恋の憧れの歌、Deh viene(さあ、来て)のアリアをきく時-いや、彼女の歌はアリアではじまるのではなくて、その前のレチタティーヴォ、〈とうとう、うれしい時が来た〉からしてすでに素晴しい歌なのだ。それがあんまり甘美なので、私はもううろたえてしまう。・・・・
例のケルビーノの〈恋とはどんなものか知ら〉のアリアのすばらしさ! こんなことは、もう誰も知っている。私は一言もいう必要はない。これこそ、はじめてこの音楽をきく人から、これまでに何百回もきいてきた人に至るまで、どんな人も、同じ結論のところで出会ってしまう、稀有な傑作なのである。
そういうものとなると、シュヴァルツコプフは、この歌から何か特別なものを引き出そうと深追いしない。何と賢明な人だろう。ケルビーノがこんなに怜悧な少年だとは、誰にも信じられない。そのくせ、ここにあるものが歌の芸術のひとつの極致だということには、誰も異存がなくなる。ということは、これが二十世紀のモーツァルトを歌うひとつの典型的な成就だということなのである。これ以上、あっさりしていても、これ以上ねっとりしていても、いけない。
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*シュヴァルツコップ モーツァルト オペラ・アリア集 -出合いの旋律-