永井陽子の短歌鑑賞 五首 「アンダルシアのひまわり」

*永井陽子の短歌  五首「アンダルシアのひまわり」〈いろはno思いこみ鑑賞〉 撮影 ときがわ町

〈いろはno思いこみ鑑賞〉

永井陽子(1951-2000)は、1951年の生まれ。わたしとほぼ同じ時代に生き、2000年まで同じ時代の空気を吸っていたことになります。彼女の生涯は四十八年という短い生涯でした。

永井が大好きだったモーツァルトをわたしも大好きでした。同じモーツァルトの音楽を、永井と同じ昭和の時の流れの中で聴き続けてこられたことをうれしく思います。

逝く父をとほくおもへる耳底に さくらながれてながれてやまぬ      永井陽子『なよたけ拾遺』

わたしも多感な少年の日に母を亡くしました。その時には、この歌と似た感覚を覚えました。いつまでもいつまでも「さくらながれてながれてや」みませんでした。また、母の生涯も永井と同じように四十九年という短い生涯でしたので、余計にそう感じたのかもしれません。遠い過去の記憶です。(詳細は、上記の緑文字「少年の日に母を亡くし」のリンク参照)

ここに来てゐることを知る者もなし 雨の赤穂ににはとり三羽      永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』

なんと寂しい歌なのでしょう。
「ここ」とは、どこなのでしょう。赤穂などではありません。孤独な心のさまよっている場所。虚ろな心には、己の所在さえ知ることができない、そういう場所です。所在なき自己にとっては、「雨の赤穂ににはとり三羽」としか言いようがなかった、そんな言いようのない場所なのです。
「ここに来てゐることを知る者もなし」、自分自身も「知る者もな」いひとりなのです。

一番親しいかけがえのない人を亡くした気持ちは、伝えることはできません。また、その幾分かを伝えたとしても、相手は返す言葉もないでしょう。沈黙の時間が流れていきます。孤独の時間が、現実生活の時間と並行して流れていきます。

月の光を気管支に溜めねむりゐる ただやはらかな楽器のやうに   永井陽子『ふしぎな楽器』

こんな歌を詠み、永井が好きだったモーツァルトを一緒に聴いています。

   *モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K 467 第2楽章  P:カサドシュ 指揮:セル

 


風をもて天頂の時計巻き戻す 大つごもりの空が明るし      

永井陽子『ふしぎな楽器』

こんな永井の歌も詠みました。澄み切った空の下で、ディヴェルティメントの明るい風をこの身に頂きながら・・・・・深呼吸する。

 *モーツァルト  ディヴェルティメント17番 ニ長調 K 334  ウィーン八重奏団員



捉えようとすればスルリと逃げてしまう、疾走するモーツァルトの音楽のような「アンダルシアのひまわり」。手につかむことができないけれど、ありありと瞼に浮かんでくる「アンダルシアのひまわり」。

ひまはりのアンダルシアはとほけれど とほけれどアンダルシアのひまはり   永井陽子『モーツァルトの電話帳』

遠くから見られ得るもの「アンダルシアのひまはり」

肉親を失い深い悲しみに沈むことも、新しい出会いに喜びを感ずることも。嬉しい出来事、悲しい出来事、いろいろな出来事が次々と起こってきます。良い出来事だけということはあり得ません。今、私の居るここは、そのような場所。

そして、この喜怒哀楽のこの場所にこそ、「アンダルシアのひまはり」は咲いているのだと。

この「アンダルシアのひまはり」の存在に、なかなか気づきません。「ひまはりのアンダルシアはとほけれど」と永井は言っています。「ひまはりのアンダルシアはとほ」き存在なのです。それは、「遠くから見られ得るもの、遠くからしか見えないものだから。近くからはなかなか気づかない存在なのです。

しかし、憧れの「ひまはりのアンダルシア」を希求する声が、やがてこだまのように自分の居るここに返ってくる、「アンダルシアのひまわり」となって。その訪れにふと気づく時がくる。

深い悲しみに沈んでいる時だからこそ、
「とほけれど」「アンダルシアのひまはり」は、〈ここにある〉と。
今、このわたしの中に「アンダルシアのひまはり」は咲いているのだと。


ひまはりのアンダルシアはとほけれど  とほけれどアンダルシアのひまはり  (は、このわたしの中に咲いている・・・)

  
*永井陽子の短歌  五首「アンダルシアのひまわり」〈いろはno思いこみ鑑賞〉 撮影 ときがわ町


*「遠くから見られ得るもの」

 この言葉は確か、ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875 - 1926 オーストリアの詩人)が、Ding「もの」の本質について語った言葉だったような記憶があります。彼の「マルテの手記」を読んでいた時、それに関連する彼の著作の中に、その言葉はあったような記憶があります。50年前の記憶なのではっきりとは覚えていませんが。
 リルケがこの言葉をどのような文脈で使っていたか、それとは関わりなく、わたしは、「遠くから見られ得るもの」を有限の世界に対する無限の世界という意味で使っています。夜空に広がる何億光年も遠く離れた星のような。

 そして、われわれ自身も、何億光年も離れた星から見れば、「遠くから見られ得る」存在( つまり「アンダルシアのひまわり」)なのだと


*〈いろはno思いこみ鑑賞〉について
 「いろはの思いこみ鑑賞」、それは、作品の言葉が自己にどのような作用をもたらしたのか、この一点にのみ関心のある、個の思いに徹した作品鑑賞です。作品中心のではなく、自己中心的な作品鑑賞です。

〈いろはno思いこみ鑑賞〉についての詳細は、下のリンクをクリックしてください。

 作品鑑賞論 -詩の鑑賞- (1)〈いろはno思いこみ鑑賞〉


*永井陽子の短歌  五首「アンダルシアのひまわり」〈いろはno思いこみ鑑賞〉 撮影 ときがわ町
 ひまはりのアンダルシアはとほけれど とほけれどアンダルシアのひまはり  永井陽子