渡辺水巴 ふるゝものを切る隈笹や冬の山 -俳句鑑賞- 

渡辺水巴 ふるゝものを切る隈笹や冬の山 -俳句-
句鑑賞〉ふるゝものを切る隈笹や冬の山 渡辺水巴
ふるゝものを切る隈笹や冬の山  渡辺水巴

  ふるるものを きるくまざさや ふゆのやま

〈いろはno思いこみ鑑賞〉


ヘルマン・ヘッセの雲」でも書きましたように、自然の中を歩くのが好きです。歩きながら、「アンソロジーの句を小鳥がさえずるように、口ずさみます。何か心にかかるものを見つけたら、立ち止まって思いついたフレーズを紙に書き留めています。これを後で詩歌などにすることもあります。

この日も、自然の中をいつものように歩いて、「ふるゝものを切る隈笹や冬の山」という句を口ずさんでいたら、「ふるるものを切る」という言葉が心に留まりました。「このきっぱりとした、たくましさ鋭さ」は何だろう。

そうだ、これは「命そのものだ」。切って切って切って切って、切り拓いていく。ぴちぴちとしていて赤い血が噴き出しそうな。それを内に秘めて生きている姿。冬の山の隈笹の姿。


この句は、冷たく寂しく全てが枯れきったような「冬の山」(季語)の厳しい様子をいろいろと想像させるとともに、「ふるゝものを切る隈笹」の葉の鋭さによって、「隈笹」が「冬の山」を生きぬいていく厳しさ、たくましさ、鋭さを想像させます。

こんな厳しい環境の中で生き抜く隈笹の生きる姿勢・生きる覚悟、いさぎよさのようなものが「ふるゝものを切る」という言葉から鋭く伝わってきます。

「ふるゝものを」たちどころに「切」ってしまう「隈笹」。この鋭さ。冬山は枯れたように見えるけれども、それは表面的なこと。生命の血は静かに脈々と流れ続けている。ぴちぴちと生きている。切れば血が噴き出す。張りつめた生命を冬山は蔵している。


「ふるゝものを切る」

「ふるゝものを切る」  これは、「冬の山」だけのことではないだろう。「ふるゝものを切る魚」「ふるゝものを切る竹」「ふるゝものを切る猫」「ふるゝものを切るハチ」とか。

われわれの今いる「ここ」こそ「冬山」である。その中で「ふるるものを」一瞬のうちに切ってしまうぴちぴちとした生命を、人間は、この身体の中に蔵している。

生命は今ここに、この現実の中で、懸命に生きている。

人間の日常の意識にそういう切迫した自覚はないけれど、人間の生命そのものは、まさに懸命に生きているじゃないか。

人間の意識に関わりなく、生命は命を維持するために、働き通しだ。肺は酸素を吸収しては二酸化炭素を排出し、心臓は人間の寝ているときも止まらずに鼓動を続け、何十年間一度たりとも休んだことはない。生命は、まさしく「ふるるものを切る」真剣さで生き切っている

「自分はあてにならんよ。」とつぶやいている呑気な自分がいる一方で、肺は呼吸し、血液は忙しく流れ、心臓は鼓動し続けて、身体全体は一致団結して支え合って、生命は脈打っている。一分の隙も無く。

この一分の隙も無く働く生命が、本当の自分なのか。呑気につぶやいているのが、本当の自分なのか。一体どちらが本当の自分なのだろうか

こういうことを考えているのが、そもそも呑気な自分だしなあ。この肉体に訊いてみたくなる、本当のところを。どっちが本当の自分なのだ? 

ふるるものをたちどころに切りながら。厳しいこの現実の中で、命は懸命に生きている。アリも、蝶も、雀も、カラスも、ウサギも、蔓草も、野の草花も、人間も。

どうやら「能天気」なのは、人間の意識だけのようだ。


そういえば、猫も、カラスも、生ゴミの袋を食いちぎっていたなあ。あれも、命そのものの仕業か? 「炎天を行く食はむため生きむため(遠藤若狭男)だな。これからは、猫もカラスも大目に見てやろうか。とふと思った。


夏は草刈りが大仕事である。極暑の中伸び放題の夏草を刈り倒す。下の写真のような迷惑な、大嫌いな草もある。しかし、どんなに人間に嫌われようが、人間の思惑に関わりなく、草は生えてくる。伸びてくる。花を咲かせ、実を結ぶ。生きむため。
嫌な存在であるが、この草に敬意を表したくなることがある。この命そのものに。


*〈いろはno思いこみ鑑賞〉については、下のリンク参照

 人に嫌われる草


*俳句〈いろはno思いこみ俳句鑑賞〉ふるゝものを切る隈笹や冬の山 渡辺水巴

 蛇のように絡み巻き付く蔓 木の幹に食い込みながら

*俳句〈いろはno思いこみ俳句鑑賞〉ふるゝものを切る隈笹や冬の山 渡辺水巴