わが郷土の女流俳人 馬場移公子

わが郷土の俳人 馬場移公子  (俳句 水原秋桜子)

金子兜太:

 < 郷土の秩父盆地を産土と呼び習わして久しいが、その産土が生んだ誇るべき女流俳人に馬場移公子あり、とあちこちで自慢するようなって、これも久しい。・・・・・意志強く思念純粋な詩美が清潔感もろともに伝わる。>



黒田杏子:

< 私はNHKラジオ「季節のうた」に出演、毎回、折々の植物を詠んだ秀作を挙げ、その句を鑑賞する仕事を続けておりました。・・・・・
 句の選定は私に任されておりましたので、秋櫻子、蛇笏、素十、風生、青邨、林火、楸邨、龍太、澄雄・久女・多佳子・立子・かな女・節子ほかの方々の句と共に、二度にわたって馬場移公子の句をとりあげ放送しました。・・・・・
 (第一句集『峡の音』の)
  手向くるに似たりひとりの手花火は
  亡き兵の妻の名負ふも雁の頃
  寂寞と蔵片付くる日の盛り
 この三句は、ノートに書き写し、暗記していました。言いかえれば、この三句を通して私は自分のこころの内に、未見の馬場移公子という作家への強い連帯感と近親感を育てていたのです。・・・・・
  ○どこにもまぜもののない俳句
  ○あきのこない真清水のような俳句
  ○自己顕示と無縁の丈高い俳句
 いつの日か自分もこういう俳句を作れるようになりたいと希っていました。>

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馬場移公子の句は、わたしも「MYアンソロジー」のノートに書き写して、フレージングをとおして下記の7句を覚えていました。わたしの好きな句でもあったので、馬場移公子について調べてみたら、なんと我が郷土埼玉の秩父の俳人であることを知りました。

麦秋の蝶ほどにわが行方なし
寒雲の燃え尽しては峡(かい)を出づ
いなびかり生涯峡を出ず住むか
手向くるに似たりひとりの手花火は
峡の空せまきに馴れて星まつる
倖せを装ふごとく扇買ふ 
枯鶏頭種火のごとき朱をのこす

我が郷土の俳人ということで、さら愛着が湧いてきました。結果、急に句集が欲しくなり、調べてみると、下記の本に全句集が掲載されているといいます。で、すぐに購入しました。



大好きな句も含めて馬場移公子のほぼ全ての句が載っているようですから、じっくりと日々味わっていきたいと思います。「MYアンソロジー」の中に書き込む句が、またまた出てきそうです。

図らずも、購入句集の紹介で、前回の篠田悌二郎 句集『四季薔薇』に続いて馬場移公子と、水原秋桜子を師とする俳人の句集が2回続きました。水原秋桜子には、わたしの好きな句がたくさんあります。

殿村菟絲子(左)と馬場移公子 秋桜子邸にて石田波郷撮影



落語家の入船亭扇橋(1931年~)が、下の写真の事だと思われる逸話を次のように述べています。

「一行は勿論、秋櫻子先生をはじめ、地元の伊昔紅師を先頭に、牛山一庭人、杉山岳陽、藤田湘子、能村登四郎、殿村菟絲子、馬場移公子ほか、同人の先生達がぞろぞろ。山の上で、秩父音頭の踊りを見せて頂いたが、伊昔紅先生(金子兜太の父)がわざと、とぼけた感じで唱いながら、身振り手振りおかしく踊られたのが、今でも目に残っている。
 その時、はじめて、馬場移公子さんをお見かけして、地が逆上するほどびっくりした。何て美しい方なんだろう。秩父の山で、草木の深々と茂る自然の中で、・・・・・」



馬場移公子 略歴

馬場 移公子(ばば いくこ 1918年-1994年)は、埼玉県出身の俳人。本名は新井マサ子。埼玉県秩父生まれ。実家は蚕種屋。旧制秩父高等女学校(現秩父高等学校)卒。1940年結婚。1944年、夫の戦死により実家に戻り、養蚕をして暮らした。1946年、金子兜太の父、金子伊昔紅の指導を受け「馬酔木」に投句、水原秋桜子に師事。馬醉木賞を受賞。「馬酔木」を代表する女性俳人として活躍した。秩父のひそやかな暮らしのなかで独特の孤独感のある句を作った。1985年『峡の雲』により第25回俳人協会賞受賞。1994年、75歳で没。(ウィキペディアより部分引用)






わが郷土の俳人 馬場移公子     (俳句 水原秋桜子)