嵐山渓谷風景「比企の渓」与謝野晶子の旅

*与謝野晶子の旅 「比企の渓」 -嵐山渓谷風景-


 与謝野晶子は昭和14年(1939年6月)に、嵐山渓谷の「松月楼」を訪れています。その時に詠んだ歌がこの歌碑にある歌です。*嵐山(らんざん)渓谷は、いろはの近くにありますが、隣町になります。 


槻の川赤柄の傘さす松の立ち並びたる山のしののめ   晶子

つきのかわ  あかがらのかさ さすまつの  たちならびたる やまのしののめ

 

 与謝野晶子の旅の歌は、「比企の渓」と題して歌誌「冬柏」(とうはく)に29首載っています。この碑の歌はその中の一首で比企丘陵に多く見られた赤松 を歌っています。『冬柏』時代の与謝野晶子と旅・短歌」の資料にも、〈昭和14(1939)年6月[埼玉]武蔵嵐山 冬柏6号「比企の渓」晶子29首〉と、その記載があります。



 下の写真は、昭和初期の嵐山渓谷の写真で、与謝野晶子の訪れた「松月楼」が背後に見えます。与謝野晶子もこのような風景の中、この橋の上を散策していたかもしれません。料理旅館「松月楼」には、最盛期には年間100万人の観光客が訪れたと言われています。



 しかし、今ではその建物はなく、現在は「松月楼」の跡地には展望台だけがひっそりと建っています。(下の写真)



 

 ここが「嵐山町」(らんざんまち)という地名の発祥の地であるそうです。

 日本初の林学博士である本多静六博士は、現在の嵐山渓谷やその中枢部を踏査して、渓谷と周囲の見事な紅葉・赤松林の美しい景観を眺め、その様子が京都の「嵐山(あらしやま)」に大変よく似ているということで、「これは武蔵嵐山だ」とつぶやいたそうです。これが「嵐山町」(らんざんまち)の由来でそうです。
 最寄り駅の東武東上線の駅名は、「武蔵嵐山(むさしらんざん)」となっています。



 では、この嵐山渓谷の写真を4月に撮影しましたので、ご覧ください。嵐山渓谷の北側の駐車場から歩き始めました。






 





 







*与謝野晶子の旅 「比企の渓」 -嵐山渓谷風景-