*シューマン 歌曲集「詩人の恋」作品48 楽曲解説
*5月1日紹介のLPレコードの解説より
歌曲集《詩人の恋》作品48
1840年に作曲されたものだが、完成の月日は正確には判らない。詩はハイネの「歌の本」Buch der Liederの中の「抒情挿曲」Lyrisches Intermezzo(1822/1823)の中からとられた16曲である。はじめの6曲は愛のよろこびを主題とし、第7曲から第14曲までは失恋の悲しみをうたい、最後の2曲は過ぎ去った恋への思い出とも云うべきものである。
1.美しき五月に
ドイツの五月の明るい春の訪れは、日本とは違った強い印象をあたえる。官能的なものをほのかににおわせる旋律、純な愛の高まりを描き出すピアノ伴奏一シューベルトとはまた違ったリートの世界である。最後が七の和音で終わっているのも、まだあこがれのみたされぬことを示している。
2.我が涙より
ここにもも未解決の終止がある。レナチナタティーヴォ風なしずかな旋律がロマン的な感情を豊かにたたえ、伴奏は単純だが、きわめて繊細である。
3. ばらよ、百合よ、鳩よ
正に声楽的スケルツォと云うべきもの。
4.君が瞳にみいるとき
恋の心は高まりつつも、純粋なはじらいの中にある。ここで音楽的なものはむしろ控え目で、詩の表現をそのまま生かそうとしている。
5.私の魂をひたそう
全くシューマネクスなピアノ伴奏はそれだけでるも美しいメロディーを持っている。
6.聖なる河ラインに
ここで作曲家は瞳を転じて、ライン河の雄大なる描写をはじめる。左手のオクターヴは大伽藍からひびきわたるオルガンのひびき、右手は絶えず起伏するラインの波であろう。しかしそのひびきも次第にやわらかくなり、ドームの中のマリアの絵姿に集中されてくる。この手法は映画のパンの技巧のようだ。最後のピアノ後奏により、再びラインの遠景にもどる。マリア像を恋人の姿になぞらえるのは中世以来の民俗思想である。
7.我は恨まじ
恋人の裏切り! しかしまだその怒りは暗い悲痛とはならず、ハ長調の連打の中に詩人は激しく歌いきる。
8 .花にしてもし知らば
下降音型の旋律にこまかい音が伴奏する。しかし最後には裂けた心のはげしいいたみが叫びとなる。
9 .あれは笛の音
8分の3拍子の踊り、愛した人の婚礼だ。踊りははげしくなり、詩人はその苦しみにたえねばならぬ。しかしすべては終わった。男の怒りはしずまり、悲しみは深まっていく。
10.我、歌をきけば
伴奏も歌も単純ながら、何という美しい楽想であろう。前奏と後奏に耳を傾けることを忘れてはならない。
11.若者は娘を愛し
シューベルト風な民謡調ではじまるこのバラードには、詩人は皮肉なあきらめを持っている。このハイネの皮肉を、シューマンは殆どシューベルト的な率直さで生かした。最後のピアノの音にはユーモアさえある。
12.光かがやく夏の朝
シューマンはここで、ブラームスにも比すべき繊細な自然の気分を模写する。若者たちのささやきには何か妖艶な美しささそえ感ぜられるが、それも詩人の心を痛ましめるばかりだ。何という微妙な転調であろう.。
13.我、夢に泣きぬ
はじめはささやくように、叙唱的に歌われる。伴奏は極度に節約きれている。その和音も、幸福な夢の思い出となるときは和らぎ、そして終わりには悲痛な現実がはげしい激情をひき起こす。しかし失われた恋人も時の流れの中に漸く遠のいて行く。苦痛は浄化きれ、夢は甘美となる。
14.夜ごとの夢に
夢に現れた人に、詩人はためらいつつ語りかけるのである。
15.古き物語の中より
終わりの二曲はもはや恋人の姿を描くのではなく、むしろ一般的な恋の苦痛の歌である。両曲ともシューマン独特の男性的な力強い曲調が主となっている。この曲は軽やかなリズムで明るくはじまるが、施律は短七度や増四度を伴って、ついに最高潮の「ああ」の叫びに高まる。
16.いまわしい思い出の歌
ピアノのオスティナート的な音型の連続が転調を正確にしている。音楽は詩の表現を所々逐語的に再現している。そして最後の長い後奏は、再び我々を内面的な心の世界にひそめてくれる。ここには第12曲の「光かがやく夏の朝」の一部が再現する。
*シューマン 歌曲集「詩人の恋」作品48 楽曲解説