
昭和史研究家でノンフィクション作家の保阪正康氏が、下記のように語っていました。わたし「いろは」も、かねてより同じような思いを持っていました。
*以下、保阪正康さんの言葉。なお、これは、保阪正康氏の話した言葉を書き写したものなので、聞き間違いや正確さを欠いている部分もあるやもしれません。
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今の法的な決定、男系男子を決めていくやり方というのは、この法律(皇室典範)だけの問題ではなくて、国旗損壊罪とか、国家情報局の設置とか、憲法改正とか、そういう政策と一体化しているのではないかと、そういうようなことを考え、懸念しています。
天皇に発言させないような方向に持って行く。昭和の日の式典、昭和百年記念式典で天皇に発言させていない。
天皇を昭和10年代のような形にしておく。そういったことに付随する政策というのと呼応しているのではないか。そういう懸念がひとつありますね。
もう一つはですね、象徴天皇制がこれによって、壊れていくのだということです。今まで国民統合の象徴という正しい天皇像を作ってきたわけですね。それを壊そうとしているのではないかと。
近代日本をきちんと学んでいない人たちの、天皇観の怖さ。それをひしひしと感じます。
天皇陛下は、『皇室のあり方や活動の基本は国民の幸福を常に願い、国民と苦楽をともにすることだと考えており、こうした皇族数の確保のあり方についての議論においても、国民の皆さんの理解が得られるものとなることを蜜んでおります』と語っておられます。
今の政権のやり方では、この天皇制に対する国民の関心・支持が5年後・10年後には確実に薄れる。象徴天皇制を揺るがすことにつながるのではないかと思います。
平成の天皇(昭和天皇の後期もそうですけれど)は、自分たちに課せられている役割は何なのかということを自分たちで問い、自分たちで悩み考え、そして、実践して来たわけですね。
答えはないが、平成の天皇だと美智子皇后と一緒に、それを探しながら、追悼とか慰霊とか、国民に災害があれば、被災地に行って慰めるとか、いろんなことをやってきたんですね。
それは、政治的なものとは一線を引きながら、天皇という存在ができ得ることは何かということを、自らが問うて問うて問うて練ってきた。それが憲法と照合すると考えていて、そのモデルケースを作ったのだと思う。
そして、令和の天皇もその精神を受け継いで来られた。
今の立法のプロセスをみていると、天皇を元首* (最下段の注を参照)にしようとしているのではないか、憲法改正によって。むかしに戻そうとしているのではないか。
つまり、天皇をないがしろにしているのではないか。
国政に対する責任を負わせるような、戦前のような天皇の形にしようとしているのではないか。そういう方向を目指しているのではないかと勘ぐりたくなります。今の政権の天皇に対する対応をみていると。
象徴天皇制というのは、天皇が努力するとともに国民もそれを支えて、二人三脚で作ってきたもの。
天皇というのは、国民と一体化していかなければもたないということは、戦争を体験する中で、戦争で戦って天皇のために死んだ人があれだけいる。
小泉信三は、平成の天皇に「なぜそれなのに天皇制が残るのか考えてください」という設問をしましたね。
平成の天皇は考えましたね。それが平成の天皇の所作の中に出ているのだと思いますね。
国民の理解がなければ、象徴天皇制は続けていくことはできないということです。
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(以上、保阪正康さんの語っていた言葉の引用です。)
天皇の地位は主権者である「日本国民の総意に基づく」ものです。
もし国民の総意に基づく象徴天皇制が崩壊してしまい、天皇を元首*(最下段の注を参照)に祭り上げて天皇制が戦前のような形になるのだとしたら、それだったら、いっそうのこと天皇制などない方が良いと、ほとんどの国民が思うのではないかでしょうか。
そして、天皇陛下ご自身も、元首に祭り上げられて、天皇制が戦前に回帰するようなことは、決して望んでおられない。次のおことばを聞けば、それは明らかです。
8月15日の全国戦没者追悼式での天皇陛下はおことばは、「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」と語り、皆で心を合わせ、「将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います」と。また、父・上皇さまが戦後70年の2015年から使い続けた「深い反省」という表現も引き続き踏襲し、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と述べ、戦没者に心から哀悼の意を表した。
天皇陛下の国民の幸せを心から願うおこころと、その国民のための平和への希求が、ひしひしと伝わってきます。
正しく「日本の平和の象徴」として活躍されるお姿、そして日本国民を見守るあたたかい眼差しにある「慈悲のこころ」。かつての聖徳太子の慈悲のこころを見るが如き思いがします。
このような、「象徴天皇」の平和への願いをあえて壊そうとしているのではないか、と疑いたくなる高市政権の「数」を頼りにした、強引な「力」の政治です。
高市政権の考えは、天皇陛下のあたたかいおこころと、反対のところにあることが、いよいよ顕わになってきたように思います。
日本の伝統を愛するわたしからすれば、高市氏は日本のよき伝統精神を壊そうとしているのではないかとさえ思えてきます。日本の本物の伝統精神は、たとえば聖徳太子の「和」(平和)の精神や慈悲の心に現れていると思います。
それは、むやみに敵対したり、力を誇示したりするようなものではない。
たとえば、茶の湯には、「和敬清寂」という日本のよき伝統精神が溢れています。
千玄室さん曰く、
敵味方も、身分の上下もない茶室。茶の湯には 千利休が唱えた「和敬清寂」という精神があります。
和は、平和であります。調和であります。
敬は敬いあう。お互いの人間は皆、差別・区別があっちゃいけない。
それから、清らかな気持ちを持って。
寂は一服のお茶によって自分が落ち着いた 安全な気持ちをお持ちになる。安らぎを与える。
みんながもう「俺は偉いんだ。俺は偉いんだ」と思っていても、みんな人間なんだよ。 その人間を、みんな一緒に仲良く同化させるということを、利休は茶の道において教えたわけです。その精神がずーっと続いているのね。
注)「元首」* 高市氏の「コラム」(更新日:2012年09月03日)には、「見事な教育勅語」と、戦前には軍国主義に利用された教育勅語を讃美する言葉書かれ、自民党の「日本国憲法改正草案」については、次のように書かれていました。(この「コラム」は、なぜかいつの間にか削除され閲覧出来ないように処理されました。この削除の意図が、当時話題になりました。)
「天皇は日本国の元首」、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」と規定し、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」との文言も盛り込みました。
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