山崎十生 もう誰もいない地球に望の月 -俳句鑑賞-

*山崎十生 もう誰もいない地球に望の月 俳句 鑑賞 紫

*この記事は、当初の記事(黒字の記事)から更新を重ねてきましたので、記事の日付を変更して、ここに掲載しています。(記事中青字の部分が追加した部分です。)いろいろな「思いこみ」読みを試みてみました。



もう誰もいない地球に望の月   山崎十生

 もうだれもいないちきゅうにもちのつき

〈いろはno思いこみ鑑賞〉

 この句について、一般的にどのような解釈・鑑賞がなされているか知りません。「怖い俳句」という文字をWeb上でたまたま見かけました。そのような解釈が一般に行われている解釈であるとするならば、下記の解釈・鑑賞はそれに反したとんでもない「思いこみ」ということになるかもしれません。あしからず。

 怖いといえば、人間の妄想の渦の中にある不安、恐怖。この人間の妄想の渦、その暴走が無くなれば・・・・・人類の滅亡はなくとも・・・・・

「もう・・・ない」もうそのような不安や恐怖のない世界。これは、だれもが望む平和な世界。「望の月」の世界。・・・・・人類の滅亡という代償はなしに・・・・・

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 散歩しているときなどに、この句がふと顔を出すことがあります。ゆっくり口ずさんでいると、何かほっとした気分になります。

 「もう誰もいない」-人間がいないから、安心できるのかしら。人事のいざこざに巻き込まれることもないし。
でも、だれもいないので、人との交わりのぬくもりもない世界なのでしょう? 淋しくないのですか?

 この句からは、そういう淋しさや冷たい感じを受けませんでした。人間がいなくても淋しくない。安心感があります。(わたしには、最初怖さはみえてきませんでした。)望の月の風景があるだけで充ち足りている世界。このあたたかみのある望の月の穏やかな美しい世界があるだけでいいのですと。

 人間的なものを透り抜けたような望の月の安らかな美しい世界。
このような世界は、人が誰もいない世界にしか現れることはないのでしょうか。

 いいえ、人の世にも、このような世界が、ふと顔を出すことがあるような気がします。
このような世界が、人の目には見えないところで、通奏低音のように流れていて、
人の世と共に存在しているような気がします。
そして、この人の世で、ふと。

 「ふと」、ひとはその通奏低音に気づき、それを聴き留めることがあります。この句のような安らかな美しい月の世界を。人間のいるこの現実の真っ只中で、「ふと」と聴き留めることが。

 たとえば、人々が寝静まってしまった「もう誰もいない」深夜、「望の月」の存在にふと気づくことがあるでしょう。

 たとえば、自分自身の命が尽きてしまったときに、「もう誰もいない」世界に、相変わらず望の月だけは輝き続けていることでしょう。

 自分の故郷に還ってしまったような懐かしさを覚える句。この世に在って、この世をこえた世界を眺めているような感覚。その安堵感。

 人間の妄想の世界を払拭した後に輝く「望の月」が浮かんできた。

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 また、人類の消滅と、月の明るさ美しさという対比的な想像もできます。しかし、何かSFめいて思えたので、上記の鑑賞では取りませんでした。

 しかし、核による人類消滅の危機は、現実味を帯びつつあり、かえって、このような想像の方がリアリティがあり、さらに深い鑑賞ができるのかもしれません。また、「SFめいた」などとそんな呑気なことを言っている時ではないと。その場合は、望の月は、「異様な美しさ」を放っていることになり、「怖い俳句」ということになるのだろうと思います。

 学生のころ観た映画、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」を思い出します。その映画の結末が、現実味を帯びつつあるのかもしれません。(となると、「怖い俳句」になってしまうのか。怖い俳句になってしまうような世界であってほしくはありませんが。)

 世界の指導者のなかには、富や地位や名誉などの滅び行くものを信じて、己の滅びの道を邁進しているとしか思えない人もいます。温暖化、環境破壊、戦争、原爆使用の危機など・・・・・   心の安らぐことのない、このような滅びの道を。

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 「父母未生以前」から月は輝き続けているのでしょうから、人類が滅び去った後も月は、その輝きを失うことなく、輝き続けていくことでしょう。しかし、「望の月」という言葉(意味)を付与した人間がいなくなった今、人は望の月の孤独を想像します。

 「望の月」は人間の「言葉」ですから、人間が居なくなれば、「望の月」という言葉の指示対象の意味も失われます。意味を失った「望の月」は人類の滅亡と共になくなり、単なる物質となった月が残っているだけということになるでしょう。
 「かつて、人類というのがいてね。人類はこれを「望の月」と言っていたんだよ。この塊を。」
 もう人類のいない地球に、(嘗て人類がそう呼んでいた)望の月が上がっているナンセンス。ただの物質の塊になってしまった望の月の孤独。その哀しみがひとりこうこうと輝いている。

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 かつて人間の万感の思いが込められて存在していた月。その人間の込められた思いだけが輝いているのだろうか。この地球の喜怒哀楽の人間世界あってこそ意味のある「望の月」であるはずなのに。「望の月」を必要としている人間の不在。


 人間の果てを知らぬ妄想の渦の中に自ら消え去っていった人類。その人類のいない地球の上空に、いつまでも煌々と輝きつづける月。「寂滅現前」する月。

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*〈いろはno思いこみ鑑賞〉については、下のリンク参照