朝日打つ我執空間の飛沫



朝日打つ我執空間の飛沫   金子兜太

 『金子兜太集』(全4巻)の第1巻「全句集」を読んでいる最中です。非力な自分にとっては難解な句も多くありますが、ただただ愚直に読み進めています。


 上掲の句はその中の一句です。この句と同じページにわたしの大好きな次の句が載っていました。

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな   金子兜太

 金子兜太の自然。何と雄大な自然。原初の野生を感じます。このおおらかで大きな世界から、自分をかえりみることができます。小さな世界に閉塞している自分自身を。

 例えば、このわたし。何事も自分できちんと状況を把握して物事をコントロールしておかないと気がすまない。それができないでいると、不安になります。(しかし、自分で全てのことをコントロールすることなどできないことですね。)この不安は「自分が」という執着ですね。自分で何もかもしなければならないと思う強迫観念、思い込みですね。自分で何もかもしなくたって、ちゃんと「朝日子照らす自然」が存在しているじゃないですか。この大いなる存在が、小さな我見の中に閉塞している自分を照らし出してくれます。

朝日打つ我執空間の飛沫     金子兜太

朝日なかわが弁証の瓦礫あり   金子兜太


 「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」この句は、さらに、普遍性の裾野を広げてくれます。「みんなちがって、みんないい。」そんな声も、わたしに響いて来るのです。

 人は他人と同じであることに安堵し、異質であることを不安に思いますが、元来、一つとして同じものはありません。多様性こそ、「いのち」の本質ですね。その証拠に、どの花も一つとして同じ花はありませんし、自然の「あらわれ」は、そのことを露わにしています。「森羅万象」ことごとく。

*「森羅万象」(明鏡国語辞典:)「森羅」は無数に並び連なる意。「万象」はさまざまな形の意。

*「我執」(広辞苑:)1.(仏)本来存在しない自我を実体視して執着すること。我見。 2.自分だけの小さな考えにとらわれて離れられないこと。