俳句に限らず作品との出合いでは、自分自身で発見した意味や味わいを、つまり自分自身と作品世界との「出合い」を大切にしていきたいと思っています。
自分自身の素朴な感想や疑問、それがどんなに幼稚なものであったとしても、そこからすべてが始まります。例えば、どんなに偉大な思想家であっても、最初の素朴な感想や疑問という「出合い」がなければ、その思想の大成はなかったでしょう。
作品(世界)を知るということは、自分自身をとおして知ることです。意味づけをする者は、自分自身をおいてありません。外界に定まった意味や価値が予め存在しているわけではありません。
作品(世界)は、自分自身をとおして、自分自身の中にその姿を現します。その意味では、作品(世界)に出合うということは、自分自身の姿に出合うということでもあります。
つまり、作品(世界)を知るということは、自分自身を知ること、自分自身の世界を知ること、自分自身の世界を創ることです。
金子兜太の「句集」を読む場合も、このような無垢な出合いから始めています。そして、「出合い」の進行に任せています。この「出合い」はわたしだけの、わたし独自のものです。この出合いの進行の「個」性こそ、大げさに言えば、わたしの「いのち」と言えるものでしょう。わたしの出合いは、わたし以外の人間は決して経験することのできない「出合い」ですから。この「出合い」は自分自身の中で刻々と創られ進行しています。
これから、どんな「個」性の「出合い」(出合いの「創造」)が待っているのか、わくわくするところです。「いのち」の創る「出合いの風景」。
この「出合いの風景」は、俳句作品との出合いだけに限られたものではありません。さまざまの多様で豊かな出合いが、わたしたちを待っています。世界は日の出を待っています。生老病死苦の過程にあっても。「限界まで 自力ためさむと決す。」
夕焼の川の香満てり平泳ぎ いろは