内側って、外側?


 毎日デジタルに「どこまでが自分の内側で、どこからが外側か? 」という記事が載っていました。記事のはじめの部分は次のとおり。
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 <「メビウスの輪」を知ってるね。内側を辿(たど)って行ったら、そこは外側だったというあれだ。君は、「自分の内側」と言った時、体や心の内側のことを思うね。でも、その内側が、外側の自然法則や快感原則によって動いているのなら、その内側って、じつは外側のことじゃないだろうか。内って、外なんじゃないだろうか。>

 これは哲学者の池田晶子さんが自著「14歳からの哲学――考えるための教科書」(トランスビュー、2003年、69ページ)に記した言葉である。今回はこの池田さんの言葉を手がかりに、「自己とは何か」ということについて考えてみたいと思う。
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 *実は、この新聞記事、現在有料会員登録を中止していて、この続きは読んでいません。今度の登録の時まで、楽しみにとっておきます。


 池田晶子? 聞いた名前、確か一冊だけ読んだことがある。その一冊を本棚の隅に積まれた本の中に見つけました。ページをめくってみると、

宇宙は私が認識することにおいて存在している。とすると、宇宙の中に私がいるのか、私の中に宇宙があるのか、わからなくなりますよね。このわからない宇宙に、わからない私が生きて死ぬとはどういうことなのか。このわからなさ、絶対不可解が私の言う「宇宙」です。」

「星空の神秘を感じているのは自分の心だから、自分の心の中に星空があると言っていいんです。」

などと、書かれていました。何か感応するものがあるような。

「自分の心の中に星空がある」というのは、経験的にもわかりやすい言葉ですね。

 下のリンク記事では、少年の日のわたしの星空の経験を書きました。記事の後半の〈少年の日に母逝きて〉参照。


 また、池田晶子さんの言う〈 絶対不可解が私の言う「宇宙」です。」〉という言葉は下のリンクにも照応するような気がしてきます。