畠山重忠 像 菅谷館跡 嵐山史跡の博物館 -「鎌倉殿の13人」-

畠山重忠 像 菅谷館跡 嵐山史跡の博物館 「鎌倉殿の13人」関連

畠山重忠 公像  所在地: 埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷



畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。

しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれた(畠山重忠の乱)。存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。

埼玉県立嵐山史跡の博物館
住所:〒355-0221  埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷757

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

 菅谷館跡は、畠山重忠が居住した地と伝えられています。
 鎌倉幕府が編纂した歴史書吾妻鏡』によると、元久2年(1205)6月19日、鎌倉に異変ありとの急報に接した重忠は、わずか134騎の手勢を率い「小(=男)衾郡菅屋館」を出発し、同月22日、二俣川で雲霞のごとき北条勢の待ち伏せに遭い、子息・郎党ともども討死したとあります。ここに見える「菅屋館」が、今日の菅谷館跡と見なされますが、現存する遺構は全て戦国時代のものです。

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

菅谷館跡は、日本城郭協会から、平成29年4月6日《城の日》に、忍城行田市)、杉山城(嵐山町)とともに「続日本100名城」に認定されました。平成19年4月に「日本100名城」として認定された、川越城川越市)、鉢形城寄居町)とあわせ、埼玉県内では5城が認定されたことになります。

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

畠山重忠 像 菅谷館跡 嵐山史跡の博物館 「鎌倉殿の13人」関連

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

 

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

*撮影 埼玉県立嵐山史跡の博物館にて

畠山重忠 像 菅谷館跡 嵐山史跡の博物館 「鎌倉殿の13人」関連

東京新聞TOKYO Web(2020年1月30日)より引用  以下
-----------------------------------------
埼玉県が誇る偉人といえば、まず渋沢栄一、次いで畠山重忠。さらに塙保己一、荻野吟子-。重忠が入っているのを意外に思う方もおられよう。彼は県北西部を本拠とした鎌倉時代の有力御家人だ。源頼朝の伊豆での旗揚げ後、当初は平氏に従ったが、頼朝が房総を経て武蔵に入国する折には頼朝に帰服した。以後、平氏討伐などに活躍する。
 頼朝亡き後、御家人間で対立が深まる中、北条氏が次第に政治権力を強める。北条時政には相模後背の地・武蔵に大勢力を有する重忠は目障りだ。後妻牧の方の唆しもあって陰謀をめぐらす。「重忠が謀反を起こして大軍で攻めてくる」と偽った。
 重忠が菅谷館(埼玉県嵐山町)にいたところに「鎌倉で何か起こりそうだ」との報(しら)せが届く。早々135騎で出立。時政の謀略にはまった。二俣川横浜市旭区)で時政の子義時率いる万余の軍勢と激突、潔く戦って壮絶な最期を遂げた。
 菅谷館は室町・戦国期、山内上杉顕定や後北条氏による支配を経て城郭の様相を備えたようだ。菅谷館跡は国の史跡に指定されており、跡地内には嵐山史跡の博物館も立っている。岩田明広学芸主幹(54)は重忠が県民らに慕われる理由についてこう語る。「正直で一本気な忠義の武士。学問に優れ、音曲(おんぎょく)の素養があった。怪力の持ち主でもある」。武士の鑑(かがみ)だった。
 かくして秩父平氏の名族畠山氏は武蔵の地から消え去った。だが、重忠の室が時政の娘だったことから、形を変えてよみがえる。この女性は清和源氏義国流・足利義兼の子義純に嫁した。両人がもうけた泰国が源姓畠山氏の始祖となる。後裔(こうえい)は室町幕府で斯波、細川両氏とともに三管領のひとつである畠山氏として発展した。
-----------------------------------------