今にうごめく 凡夫のあがき -古稀を迎えて(2)-
年末に、しばらく会っていなかった中学時代の同級生五人で集まりました。古稀にしてはみな元気がいい。亡くなった同級生もいます。それぞれ様々な事情をもって生きている、他の同級生の様子も話に聞くことができました。古稀を折りに、春に開く同窓会の相談も行いました。
飲んでしまったので、帰り道、1時間30分かけて家まで歩いて帰りました。
歩きながら、いろいろ考えました。考えさせられました。亡くなった友のこと、それぞれの事情を抱えながら生きている同級生のこと。亡くなった親しい友の墓参りもしておきたいな。
古稀を迎えて、今にうごめく、凡夫のあがき。 -古稀を迎えて(2)-
さて、ここ2回連続で、試みに「イノセント」という言葉に関わる記事を書いてみました。
しかし実は、この<イノセント>は、わたしには普段ほとんど縁のない心持ちなのです。いつもは、平凡な時間をただただ過ごしているだけです。たまに、ほんの一瞬<イノセント>かなと思う瞬間があるかないか。
一瞬のうちに<イノセント>は、消え去ってしまいます。それどころか、古稀まで生きると、悔悟の情も募ります。そして、凡夫のあがきに急転直下することも。
これが現実です。現実は、<イノセント>から遠く隔たった娑婆世界の人間として生きていますし、これからもそのように生きていきます。
ですから、わたしこそ、<イノセント>に憧れる人間なのでしょう。で、<イノセント>と声高に言っているのかもしれません。日常にない、稀有な心境ですから。
それで、モーツァルトの音楽などをたまには聴いて、<イノセント>を思い出すことにしているのかもしれません。現実の真っ只中で、ほんの瞬間的に垣間見る<イノセント>の世界です。希少な瞬間。
このブログは当初、殊勝にも、「遺書」を書こうと思いついて始めたものでした。
本当は、「物言へば唇寒し秋の風」で何も言わないのが、いいのでしょうが、凡夫のかなしさ、つい何か言いたくなります。
現実生活では、一言言っただけで、我が身にプレッシャーが降りかかって来ることもあります。そして、一言言ったために、後悔することもあります。
もの言はぬことのたのしくかき氷 永方裕子
平和主義者のわたしとしては、この句のような平和な日々を過ごしたいのです。
しかし、そうも行かないのが現実。現し身には、うごめく世界があります。凡夫のあがきですね。 後悔覚悟で またあがき はじめよか 年始め。
古稀になほあがきのやまず 冬の虹 いろは
冬の虹 我が身の業の為すままに いろは
マラルメも「肉は悲し」と言っていたなあ。
(時には、「肉は痛し」と思うことも。)