<イノセント> チューリップ喜びだけを持つてゐる 細見綾子

チューリップ喜びだけを持つてゐる  細見綾子

チューリップの存在そのものの喜びが、みなぎっています。今にも喜びが溢れ出しそう。それが喜びであることさえ忘れてしまうほど。満ち足りた世界そのもの。

わたしの大好きな細見綾子の句です。

無垢な心の瞬間。その瞬間にしか、世界はその存在を露わにしません。心が澄みわたり、例えば、モーツァルトの音楽がひしひしと心に響いて止まない、その一粒の涙。まさしく、イノセント。

通常の所謂「言葉」は、説明にすぎません。説明は、分かってしまえば、それでおしまいです。生命がない。理解されれば、命を終えます。


<イノセント> チューリップ喜びだけを持つてゐる 細見綾子

詩の言葉は違います。「詩は経験である」といわれます。

細見綾子の句は、その感動を表現するには、「チューリップ喜びだけを持つてゐる」としか、言いようがなかったような原体験、経験の表出です。

月を指すゆび」という言葉があります。ゆびばかり見ていては、この句を読んだことにはなりません。この句の解釈は、限りなく生まれてくるでしょう。この句の説明も、限りなくすることができるでしょう。

言葉に言葉を重ねていっても、月そのものは見えてきません。それらは、所謂「説明」ですね。わたしの今までの言葉もそれで、月そのものではありません。

わたしも今まで、「思いこみ鑑賞」と称して、自分の思いを説明してきました。これはあくまで「わたしを語っている」のであって、月そのものを語っているわけではありません。

解釈を止めて、月そのものに参入しないと、月そのものは見えてきません。月(詩)はまさしく、不立文字です。
ですから、説明は不可能です。説明すると陳腐な言葉を並べる結果となります。

しかし、月そのものが、読者の外側に存在しているわけではありません。


<イノセント> チューリップ喜びだけを持つてゐる 細見綾子

読者自らが、月そのものを創り出さない限り、月を見ることはできません。月は、自分自身の心の自由の中に、創り出すものですから。

この月は、自由な心の大空にだけ、輝き始めるのですから。
何もないおおらかな無垢な空間にだけ。
まっさらなイノセントな空間にだけ。
イノセントという無垢な自由な空間にだけ。

わたしたちは、ついつい何かあるものに忖度(そんたく)して、その結果、このイノセントという無垢な自由な空間を忘れてしまっているのではないでしょうか。チューリップの句は、それを思い出させてくれます。

忖度の対象は、周りにいる人間だけとは限りません。自分自身の思いこみや観念などもそうです。これらの忖度によって、われわれは、自分で自分自身を狭く限定して、自らを小さな枠組みに、自分を閉じてしまっているのではないでしょうか。

そういう意味では、詩の言葉は、切り拓かれた自由な「普遍的な自己」の経験の表現と言えるのではないでしょうか。読者も自らの心を解き放ち、無垢な自由な空間の中に、はじめてその詩を味わうことができるのではないでしょうか。

話が難しくなってきてしまいました。何も分かっていないゆえの、わたしの迷走を書いてみました。


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 <「いろは」のメモ>

・唯識*では、「一人一宇宙」ということを言うそうです。わたしもはその「一人一宇宙」という言葉を使わせていただいております。ただ、わたしの場合は、唯識で言うのとは意味がかなり違うと思います。唯識のことは、よく分かりかねますので。
(*唯識とは、「自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて根本的心、すなわち阿頼耶識* から生じたもの、変化したものである」とする思想。)* 人間の奥底の心とでもいったらいいのでしょうか。

・作者のある経験(源)から作品が生み出されますが、読み手はその作品から作者の表現意図と一致する経験の「源」に到達するとは限りません。読み手のコードは様々ですから様々な想像が生成されます。その想像は、あらぬ地点に到達し、そこからあらぬ展開を始めることもあるものだと思います。イノセントであればあるほど。自由の空間は広く、未来へも開かれていますから。

・これが、作品からの連鎖反応の展開。普遍的になればなるほど、自己は完結しませんから、その連鎖は、更に開かれていくのだと思います。
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<イノセント> チューリップ喜びだけを持つてゐる 細見綾子