詩の鑑賞・1 〈いろはno思いこみ鑑賞〉論(1)



 作品鑑賞論 -詩の鑑賞-  (1)〈いろはno思いこみ鑑賞〉


 かつての「永井陽子の短歌」記事の最後に、〈いろはno思いこみ鑑賞〉について書いておきました。(「永井陽子の短歌」は、このページの一番下にリンクあります。)

 今回は、この〈いろはno思いこみ鑑賞〉について、自分なりに考えを少し進めてみたいと思います。

 詩作品を読む場合、わたしは「作品中心」の読みをしません。作品に予め存在するであろう定まった内容を想定して、それを探り当てるための「読み」はしない(正答を求めるような読みはしない)ということです。
 「自己中心」の読みをします。

 特に短詩型文学作品を読む時に、この自己中心の読み方は適しています。短歌や俳句など文字数が少ない作品は、読者に親切丁寧な読みをさせてくれません。自分で読みを創っていくしかないのです。また、その自由度の高さが短詩型文学作品を読む魅力でもあるわけです。自分なりに読みを創っていく余地が十分ある。自分なりの読みの創造です。

 このことは、短詩型文学作品に限ったことではありません。読むという行為そのものが、このようなことであると。

 「書く」ことについて考えてみると、分かりやすいと思います。文章を書く場合、「書く」という行為に伴って、次第に書く内容が明らかになってきます。書きながら、いろいろな新たなアイディアも浮かんできます。次の日には、別の観点から別の思いや考えも湧いてきます。

 つまり、「書く」という行為は、最初から存在している内容を言葉に置き換えていく行為ではなく、最初は存在していない内容を書くことによって、はじめて明らかにしていくこと、生み出していくことであると言えます。「書く」という行為にともなって、新たに考えが生み出されていく創造行為であるということです。あらかじめ書く内容が定まっていて、それを言葉に置き換えていくということではない。

 上の「書く」という言葉を、そのまま「読む」という言葉に置き換えてみてください。「書く」を「読む」に読み替えることができるはずです。


 このように、〈いろはno思いこみ鑑賞〉は「作品中心」の読みではないので、作品の中に予め存在する定まった内容を想定していません。文章を「書く」場合の、まだ書き始めていない真っ白な状態と同じです。

 「読む」という行為にともなって、自分の眼を通して作品内容が明らかになってくる。作品の表現を手がかりにして、それがきっかけとなって、時には堰を切ったように、自己の世界が広がっていく。新しい世界の地平が開けてくる。つまり自己の世界を創っていくことなのです。決して作品に従属した受動的な読みではありません。(これを新たな認識というんでしょうか。自己の世界観の拡がりというのでしょうか。あるいは、心の自由というのでしょうか。)

 しかし、作品がなければ、上記の読みは不可能です。作品の言葉には、読む者に新たな世界を開示する力が備わっています。作品の言葉の力、促しにしたがって、読んでいけば良いのです。そして、開示される世界やそこへ至る道程は、鑑賞者それぞれによって違います。

 その作品の価値は、わたしの場合には、上記の観点から自然に決まります。世間的に評価が高い作品であるかどうかは、意味がありません。その場でその時点で、自己にとって意味を持つ作品であることが、〈いろはno思いこみ鑑賞〉にとって価値あることなのです。

 それは、その時点での価値であり、その時点で価値の見出せない作品でも、将来、廻りめぐって新しい「出合い」があり、その作品に遭遇することがあるかもしれません。つまり価値ある作品としての出合いがあるかもしれません。

 しかし、当面、そんなことはどうでもいいことで、今の時点で、今の自分の世界を拡げてくれる作品だけが価値があります。直面する今を切り拓くことができなければ、将来の出合いもありませんから。


 詩作品だけではない。音楽も絵画も、空も山も川も花も虫も、そして人間も - 世界は「私」に「よみとられる」ことを待っています。

 世界の存在の扉が開かれることを待っています。

 それも、この「わたし」ひとりのためだけに。


 いろはno妄想の展開。いろはno思いこみ鑑賞論(1)でした。

*参考

作品鑑賞論 -詩の鑑賞-  (1)〈いろはno思いこみ鑑賞〉