詩の鑑賞 ・2 〈いろはno思いこみ鑑賞〉論(2)



作品鑑賞論 -詩の鑑賞- (2)〈いろはno思いこみ鑑賞〉


 前回書きましたように、詩作品は、鑑賞者によって「よみとられる」ことを待っています。鑑賞者によって「よみとられ」て、はじめてその存在を明らかにします。(つまり、作品は鑑賞者によって創られます。)

 「言葉は存在の住居」と言った哲学者がいました。私たちは言葉を通して存在に出逢うことになります。詩の言葉は闇を照らす光。その光は、闇の中に隠された世界を照らし出します。光に照らし出された領域は、その姿を私たちに明らかにします。

 言葉が、それまで眠っていた存在を目覚めさせた、と言った方がいいかもしれません。このように詩の言葉は、存在を呼び起こします。

 これは新たな世界との出合いであり、世界と私との間に、新たな関係が結ばれることです。新たな関係の始まりです。「私」の新たな生の始まりであり、生の展開です。

 「詩は経験である」といわれています。そうしますと、認識の経験が詩の言葉を生みだす「源」になります。だからこそ、そこに詩の真実も生まれてくるのです。




〈詩の鑑賞や言葉について: 思いつくままに〉

・作者の意図した、表現しようとした内容と、読み手の読みの内容にずれがあればこそ、新しい世界が展開し創造されていくのではないだろうか。

・そもそも「誤読」のない読みなど存在するのだろうか。作者と読み手は別の人間である。手持ちのコードがまったく違う人間。それが言葉を媒介として出合う。

・それぞれ、なぜ、この世に生まれて来たのかさえ分からない人間同士の出合いなのである。どうして、ここに存在するのかさえ分からない人間同士の出合いなのである。

・まったく別の人間同士の出合い。だから、「誤読」を恐れない方がいい。みなそれなりに正解の読みであると思った方が良い。当面、「誤読」はないと思った方がいい、後に新しい気づきや認識が生まれてくることがあるにしても。それもまた「誤読」かも知れないのだから。

・また、作者の表現意図を超えて作品が新たな地平を表現してしまっていることがあるかもしれない。あるいは、作者の表現意図を超えた地平を読者が作品から読み取ってしまうことがあるかもしれない。作品となった時点で、作品は作者の手から離れて生きていく。

・言葉によって相対化され、切り取られてしまった世界を、言葉によってつなぎ合わせようという企てである。異質なものをつなぎ合わせ、結合して新たな世界を創造する。そこには、今までとは質の違った新しい世界が現れてくる。

 例えば、生と死は、言葉によって分けられている。異質なものである。だから、人間は当然死を恐れる。異質なものは怖いから。

 ところが、生と死という異質なもの同士をつなぎ合わせれば、「今生きている」とも言えるし、「今死んでいる」とも言える。でも、これをどう表現したらよいのでしょう。言葉では表現できない事態を、言葉によって表現しようとすると、そこに詩が生まれる。

 人は、いつの間にか知らされないうちに生まれ来て、いつの間にか知らされないうちに死んでいく。この一連の事態は、一続きである。生と死をどこかの時点で分けることができるでしょうか。

 いつの間にか誕生は準備され、いつの間にか死は準備されている。誕生と同時に死は準備されている。否、誕生の前から死は準備されている。何億光年前からそれは準備されていたとも言えるでしょう。「生はひとときのくらゐ」「滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり」と先人は述べているではないか。
 ところが、言葉はそれを強引に、生と死に分けてしまう。

 そう、言葉は存在を隠蔽する。「言葉は存在の住居」、「言葉は存在を呼び起こす」と書いたが、それらとは相反することを言うことになってしまった。言葉は存在を隠蔽する。

☆ だいぶ前のめりに話が進んでしまいました。思いつきですから、軽くスルーしてくださいね。

常に家舎に在って途中を離れず。

行く先に我が家ありけり蝸牛

ゆくさきに   わがやありけり   かつつむり

*いろはno妄想の展開。いろはno思いこみ鑑賞論(2)でした。