あそび 「ただ」の世界 -こどもの日-
「あそび」と言えば、わたしはすぐ思い出す場面があります。かつて、物事がうまく進まずに戸惑っていた時、その話を聞いていた一人が、一言「あそんでしまいなさいよ。」と言いました。
この言葉に何かがひらめきました。この言葉に納得しました。そして、今もわたしの中に、この言葉が生きています。単に気分転換のために「遊ぶ」ということではないのです。この言葉によって、何か吹っ切れるものがありました。肩の力が抜け落ち、解放された気分になりました。
「詩の鑑賞」のところで、言葉が、眠っている存在を目覚めさせるということを書きましたが、「あそんでしまいなさいよ。」というこの言葉が、がんじがらめになっていて身動きできない私に、新たな世界の存在を示してくれたのでした。どこにでもある、ごく普通の何でもない言葉なのにです。言葉は存在を喚起すると言われますが、これは本当のようです。
今日はこどもの日。自分をしがらみから解き放って、新たな奔放な世界に遊んでしまえ! という話。
こんな英語表現があるかどうか知りませんが、わたしが勝手に並べた英単語のフレーズが、これです。
〈 Friendly Hi Smile Open Free 〉
これらの英単語をつぶやきながら、こどものように、散歩したことがかつてありました。時には、英単語に合わせて大きく身体を動かします。「Open」で世界に大きく両手を広げて気分を解放します。こんな「あそび」気分で散歩を楽しんでいると、やがてゆったりとした気分になります。
安房は手を広げたる国夏つばめ 鎌倉佐弓
あわはてを ひろげたるくに なつつばめ
世界がわたしを呼んでいる。言葉、動作、周りの自然がひとつになり、のびのびとした気分になります。
こどものように、出会った生きものや草花にも話しかたくなります。「タンポポ、元気そうだねえ。」すると、
にこやかに ハイとタンポポ 目を開き
カモはけげんに ふり返り ます。
*ときがわ町玉川 都幾川付近 カモ 撮影2022.5
こうして、 気分を十二分に解放してから帰途につきます。
散歩が一段と楽しいものになります。電車や風に「Hi!」 と話しかけるのもいいかもしれません。こんなふうに、たまにはこども返りをしてあそびます。
老いては子に従え。老いては子に帰れ!
古稀を迎え、老いては幼児に帰るような気がします。さらに、だんだんと身体的な性能が低下して、自分でできる範囲も少なくなってくるでしょう。そうしたら、もう自然の成り行きに任せるしかない。ふるさとに帰るようなものです。
最近はしばしば老いを実感しています。幼児帰りも始まったようです。何か、こころが澄んでくるような感覚に陥ることがあります。何かを見ていていても、やたらに素直に感じられる。そして、感慨は深くなります。
なんら気張ることもない 見栄をはる必要もない
老いの醜さなんて気にしなくなり 美も醜もない
仮に老いに醜さや惨めさがあるとしたなら 素直に受け入れる用意はある
自然になりゆく ただあるがまま ただあるがまま
先日は、八高線の踏切の警報器の「カンカンカン」という音が、なにか懐かしく思われまして、ずっと聴き入っていました。この音に何かひどく郷愁を感ずる。ただただ鳴っているその素朴さ。その落ち着き。存在そのものの音かと思うほどです。
こうなったらもう言葉はいらないか!? 「考えるな見よ」と先人も言っていた。考えずに、ただただ聞いていればいい。踏切の音。
空手にして来たり、空手にして又帰る。ただそれだけのこと。
山沿いの線路を走る春の風 いろは
そういえば、ここ数年、マーラーという作曲家の音楽にどっぷりと浸り切っていますが、その音楽を「きいている」と、心がいつの間にか澄み渡ってくるのを感じています。こころが澄んでくると、いつの間にか、心がよろこんでいる。これも老いの恵みかな。もの忘れも多くなり、身体の節々の痛みも覚えつつ、素直にこどものような心に帰っていく。ただそのままの、ただの世界に。
と言っても、今日も明日も草刈り作業が待っています。今、草刈り作業に追われています。今年は特に草が伸びること伸びること。それが、彼らの仕事ですから。それを刈るのがわたしの仕事。今日も草刈り始めます。
*〈いろはno思いこみ鑑賞〉については、下のリンク参照