ひとりひとつの世界 -音楽の鑑賞について(わたしのモーツァルト)-
たとえば、音楽の鑑賞について考えてみます。
モーツァルトの音楽が演奏されるコンサート会場に行けば、モーツァルトの音楽を聴けるわけではない。
また、モーツァルトの音楽はこういう音楽であるとして存在しているわけでもない。こういう音楽だと決まっているわけでもない。
それぞれの人がそれぞれに、モーツァルトの音楽を自分の中に創り出さないかぎり、モーツァルトの音楽は未だ存在してはいない。演奏家は楽器の演奏によって。われわれ鑑賞者はその演奏を鑑賞することによって。
自分の中に自分のモーツァルトの音楽を創っていく。
このことは、「わたし」として、この世を生きている人間は、わたし以外にいないということでもある。鑑賞はわたしの外には存在しない、わたしの中につくられる事件である。
モーツァルトの音楽を自分は「このように聴いた」、このように受け止めたと。
学説も、評論も、解説も、資料や伝記も、作品そのものにはかなわない。
作品そのものが、モーツァルトの音楽を雄弁に語っているのだから(したがって、モーツァルトという人間も)。作品そのものとじかに対峙する以外に、作品との出合いはない。ひとり合点する以外に、モーツァルトとの出合いはない。
自分は「斯くの如くモーツァルトの音楽を聴いた」と。
独りごてば鯉の寄りくる百合の花 いろは
ひとりごてば こいのよりくる ゆりのはな
本当のことは、だれにも分からない。それを承知の上で、それぞれが自分の思いを語るしかない。同様に、ひとりが「ひとりひとつの世界」を創っていくしかない、生み出していくしかない。それ以外に世界は存在しようがないのだから。
ひとりがひとつのモーツァルトの音楽の世界をつくっていく、生み出していくことになる。時間や空間は、自分を離れたところに存在しているわけではない。音楽鑑賞もかくのごとく。
権威主義とは、この「ひとりひとつ」をなおざりにして、権威にすがろうとする自己疎外のことを言うのであろうか。
人は何かの「よるべ」を外に求めたがる。だが、「よるべ」は外にはない。人は性急に結論を求めたがる。しかし、結論はどこにも見つからない。本当のことは、だれにも分からない。
赤ん坊のむき出しの足風薫る いろは
あかんぼの むきだしのあし かぜかおる
以上「いろは」の妄想でした。
「いろは」には、本当のことなんて、何も分かっていないのですから、軽く聞き流してくださいね。