今年の春、自作の俳句を新聞(全国紙の全国版)へ投稿してみました。そうしたら、新聞にわたしの俳句が掲載されるようになりました。選者のコメント付き(特選)で掲載されたこともありました。
(ヘルダーリンの詩の記事で、「いさおし(功績)」のことを書きました。)この自作の句が新聞に掲載されたことは、俳句を始めたばかりの者にとっては、(庶民の)ささやかな「いさおし(功績)」です。ですから、素直に喜びます。
ですが、この「いさおし」というものは、俳句そのものの本質とは、次元を異にする事柄です。まったく別の次元の事柄です。それは本人が一番よく知っているはずです。
一期に一会だけの俳句 -出合いの俳句-
先日、わたしの友人にして大先輩の九十歳を越えた方から手紙をいただきました。その中に、一冊の本が入っていました。その本は、
孤独の俳句「山頭火と放哉」名句110選 金子兜太・又吉直樹
その手紙には、その方自身の句も添えられていました。その大先輩にして、友であるその「人」を思い浮かべながら、その「人」の二つの句を口ずさんでみます。
天辺で夏の終わりを知るむくげ
ひとつずつ神に五感を返しけり
自然は、わたしたち人間の生も死も、よくご存じなのでしょう。そして、(その自然から)むくげは知らされます。「夏の終わり」は、「おわり」ではない、秋を迎える支度である、と。
(二つの句を口ずさみながら、そんなことを思いつつ)
これから、その大先輩の友に手紙を書きます。自分の思いっきり未熟な「一期に一会だけの俳句」(言葉)を添えて。
一期に一会だけの俳句 -出合いの俳句-