俳句とは何かを学ぶ -出合いの俳句-  

 俳句とは何かを学ぶ -出合いの俳句- (いろはの「それなりに俳句ライフ」・6)

 わたしが俳句を始めて、まだ数年しか経っていません。俳句を始めることになった経緯は、〈いろはの「それなりに俳句ライフ」・1~5〉に書いておきました。 - その続編です。


出合いの俳句(俳句の学習) -俳句とは何かを学ぶ- 

 俳句を始めた数年前のことを振り返りますと、俳句の勉強で、最初にしたことは、「俳句そのもの」を直に読むことでした。俳句の作り方や入門書などで俳句の周辺をうろうろするより、俳句そのものに直に当たることが肝要だと思ったからです。

 簡単に言えば、優れた俳句作品を自分の感性で直接に読み取るということです。俳句作品と自分との間に、媒介物(先入観)を入れないで読む。

 なぜなら、俳句の本質を最もよく語っているのは、俳句作品そのものだからです。優れた俳句作品と出合うことが肝腎なことと思っていたからです。

 「いい加減な文学論とは決別して、言葉が有効適切に使用された上等な作品にいかに迅速に到達するか」と、ある国の詩人が述べていたのを思い出します。

(優れた俳句作品とは何かは、初心者にはまだ分かりませんから、当面、定評のある作品、つまり名句にできるだけ当たるということにしました。)

 このようなやり方が、今までわたしのしてきたやり方でした。詩を読むときもそうでしたし、音楽を聴くときも、絵画を鑑賞するときもそうしてきました。



(このように作品との直接の出合いを大切にしてきたのは、わたしの親しんできた直感を重視する先哲の影響によるものです。
 モーツァルトの音楽を知るには、自分の耳とハートで、モーツァルトの作品世界に直接出合うしかない。このことは、「ひとりひとつの世界 -音楽の鑑賞について(わたしのモーツァルト)-」にも書きました。)

 このようにして、定評のある名句をできるだけ多く読んできました。それらの中で、素直にいいなと思った俳人もたくさん見つけました。というか、ほとんどどの俳人の句が素晴らしいなあと感心するばかりでした。

 時には句の良さが、自分には理解しがたい作品もありました。しかし、何度も読み込んでいくと、不思議とその味わいが分かってくるのです。これは不思議です。するめをよくかんでいると、味が自然にしみ出てくるようなものです。

 自分の持ち合わせのコードを手繰(たぐ)っていくと、普段は表面に出てこない、心の奥底に隠れている経験を手繰(たぐ)り寄せることができるのかも知れません。それには、辛抱強く作品に寄り添っていくことが肝要で、時間と手間暇が必要でした。

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