ドストエフスキー全集 カラマーゾフの兄弟 「ゾシマ長老の若い兄」

**記事の書き足し・書きかえを行い、日付を改め更新しました**

ロシアのウクライナ侵攻が始まった時、わたしの先輩にして友なる方から、手紙を頂きました。

その手紙には、ロシアのウクライナ侵攻に怒りを覚えつつ、「プーチンに賢の詩(こころ)を教へたし」「愛国を言ひて人を殺(あや)めけり」「プーチンでロシアの文化貶(おとし)めぬ」と書かれていました。

わたしも返信の手紙に、「若い頃に愛読したトルストイやドストエフスキーなどのロシア文学を貶める暴挙」などと書きました。

このロシア文学、特にドストエフスキーは、学生の当時、全集を一冊ずつ購入して全21巻を揃え、時間を忘れて夢中になって読んでいました。
冬の日に毎夜読み続け、東の空が白むまで読み耽ったこともある思い出の全集です。

ドストエフスキー全集 / 米川正夫訳 河出書房 全21巻

ある教授が、「長編小説は、若い時に読んでおかないと、一生読めないで終わってしまうことがある。長編小説は、若いときに読んでおけ。」と言っていたことを思い出します。この全集のお陰で、ドストエフスキーの長編小説を時を忘れて全て読み終えることができたのです。


その思い出のドストエフスキー全集を探しているのですが、どこへ行ってしまったのか見つからないのです。もしかしたら、蔵書を一気に処分した時に、一緒に出してしまったのかもしれません。ここ数日、物置のあちこちを探しているのですが、見つかりません。

ドストエフスキーの小説の内容は、もうすっかり忘れてしまっていました。ところが、夜中に目が覚めたとき、ひとつの場面がふと心に浮かんできたのです。

臘梅のつぼみ枕になぜに落つ  いろは

ろうばいの つぼみまくらに なぜにおつ


夜中にふと心に浮かんできたのは、「カラマーゾフの兄弟」の中の一場面でした。これだけは、ぜひ読み返しておかなければならないと思い、今こうして全集を探しているのです。たしかゾシマ長老の回想の中に出てくる場面だったと思いますが。

50年前の読書ですから、記憶が曖昧です。「カラマーゾフの兄弟」の中ではっきりと記憶に残っているのは、たったひとつ。この小説のはじめに記された次の言葉だけです。これは、今でも覚えていて、空で言えます。

「まことにまことに汝らに告げん。一粒の麦地に落ちて死なずば、一粒にてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。」 (ヨハネによる福音書)

*ちなみにわたし「いろは」はキリスト教徒ではありませんが、聖書とくに「新約聖書」は、若い頃何度も読み返しました。その中に素晴らしいフレーズをたくさん見つけることができたからです。驚くべき言葉の宝庫でした。そのうちの気に入ったフレーズは、「Myアンソロジー」にも書き写し、そのうちのいくつかは今でも覚えています。

さて、全集が見つからないので、図書館でカラマーゾフを借りてくることにしようか、どうしようか。本を入手して、その場面を確認できましたら、このブログを後日更新することにします。*更新しましたので、ブログの日付を改め以下に追記しました。


更新(追記)

図書館で、ドストエフスキー全集を借りてきました。亀山郁夫訳ものです。一時評判になっていた新しい訳です。

カラマーゾフの兄弟 光文社 古典新訳文庫 亀山郁夫訳 全5冊

わたしが探していた部分は、以下の部分でした。参考までに引用します。
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<カラマーゾフの兄弟 第2部>の中から
「伝記的資料 (a)ゾシマ長老の若い兄について」 より部分的引用

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P376-368

「でも、何年や何ヶ月も生きてどうなるんです!」兄はよくそう叫んだ。「日数なんか数えてどうするんです。人が幸福を味わいつくすには、一日あれば足りるんですよ。愛するみなさん、ぼくらはどうして喧嘩をしたり、自慢しあったり、自分が受けた侮辱をいつまでも根にもったりするんでしょう。それよりも、いっしょに庭に出て散歩したり、はしゃいだり、愛し合ったり、褒めあったり、キスしたり、自分たちの人生を祝福したりしましょうよ」

「あなたのお子さんはもう俗世の人ではないですね」 母が玄関の階段まで医師を見送ると、相手はこう言った。「病気のせいで精神錯乱におちいっています」。兄のいる部屋の窓は庭に面していて、庭には老木が影を落とし、春の若芽が萌え出て、気の早い鳥たちが飛んできては窓の外から兄に向かってさえずり、歌うのだった。すると彼はつと立ち上がり、鳥たちの姿にじっと見とれながら、小鳥たちにまで許しを請うた。

「神の小鳥たち、嬉しげな鳥たち、君たちもこのぼくを許しておくれ、だってぼくは
君たちにも罪をおかしたんだからね」

 こうなるともう当時のだれひとりとして理解できなかったが、兄は喜びのあまり泣いているのだ。「そう、ぼくのまわりにはこんなにすばらしい神の栄光が満ちていた。鳥たち、木々、草原、空。なのにぼくだけが恥辱のなかで生きていて、ひとりずっと万物を汚し、美しさや栄光にまったく気づかずにいたんだ」

「ひとりであんまりたくさん罪を背負いすぎているよ」母は泣きながら話していたものだった。

「母さん、ぼくの喜びの人。ぼくがこうして泣いているのは楽しいからで、悲しみのせいじゃないんだよ。だってぼくはね、あの人たちにたいして、自分から罪人でありたいって思っているんだから。ただ、そこのところがどうもうまいく説明できない。美とか栄光とかを、どうやって愛したらよいかわからないからね。すべてに対して、ぽくは罪があるけど、でもそのかわり、ぼくのことはみんなが許してくれている。これが天国っていうものなのさ。いったい、ぼくがいまいるのは天国じゃないとでもいうのかい?」

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P369

 わたしをみて手招きしたので傍らに寄ると、兄はわたしの肩に両手を乗せ、感動と愛情をこめてじっと顔を見つめた。ひとことも口をきかず、そうして一分ばかり見つめるだけだったが、やがて「さあ、もう遊びにお行き、ぼくの代わりに生きるんだよ!」と言った。わたしは言われるままに部屋を出て、外に遊びに行った。

 その後、わたしは人生をとおして何度となく、自分の代わりに生きなさいと兄に命じられたときのことを思いだしては、涙に暮れたものだ。兄はほかにもまだ、当時のわたしたちにはよく意味のわからなをない、不思議な、すばらしいぃ言葉をいろいろと口にしていた。

 兄は、復活祭が終わって三週目にこの世を去った。意識ははっきりしていた。ものを言うことはすでに止めてしまったけれど、ただし息を引きとるぎりぎりの瞬間までその様子は変わらず、うれしそうにまわりを見つめ、その目はほがらかさにあふれ、目でわたしたちを探し、微笑みかけ、手招きまするのだった。町でも、兄の死についていろいろと噂になったほどだった。

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