どう受け取るか -古稀を迎えて・3-

遺書-メッセージ-振り返りを書こうと思い立って、始めたこのブログ。しかし、今まで記事にしたのは、周辺のことばかり。

「遺書」らしい肝腎なことは、いつになったら書くことができるのでしょうか。

このブログには、自分の「思いこみ」をずうずしくも、よく書いてきたな、と思います。これも自分の一部。


いつの間にかこの地上に誕生し、いつの間にかこの地を去っていく。そういう身であれば、「どうしようもない」至らなさも、全て「然り」と言うしかない。

ヘルマン・ヘッセの雲:

心配してしまうときは、心配してしまえばいいのですから、心配はいりません。
心配していいのですから、心配はいりません。そう、自らに言い聞かせつつ。

この心配するというのも、与えられた、わたしのいのちの一部。喜びも、悲しみも、苦しみも。そして恥の上塗りも。わが世界の一部というか、わが世界そのものですから。何一つ欠けてもいけません。

一人一宇宙」ですから。何一つ欠けても、わたしの宇宙ではなくなってしまいます。でも、「これだけは勘弁して欲しいな」と思うことが、だれにもあります。そう思うのは、人情。当然のことです。しかし、こう「思う」人情も、人間的弱さも、自分の一宇宙の一部。この人情や弱さも含めてすべてが「一人一宇宙」。すべてを含めて首肯していく、しかないですね。

ただ、これを、どう受け取るか、人生も残り少なくなってきました。