言葉は世界観の反映 飯田蛇笏「秋の草まつたく濡れぬ山の雨」

 言葉は世界観の反映 山本玄峰 中川宋淵 飯田蛇笏 秋の草まつたく濡れぬ山の雨

いろはno思いこみ鑑賞〉と称して、詩や音楽についての鑑賞文を書いてきました。
しかし、この「いろは」の鑑賞文は、作品の本質に迫るための文章ではありません。自分自身を語るための文章であり、詩や音楽をとおして自己を語るということです。

言葉は世界観の反映 山本玄峰 中川宋淵 飯田蛇笏 秋の草まつたく濡れぬ山の雨


秋の草まつたく濡れぬ山の雨    飯田蛇笏


飯田蛇笏の句。この句もフレージングで「舌頭に千転」して詠んできました。
この句については、おそらく次のような鑑賞が通常なされているのでしょう。

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びしょ濡れに濡れ切った山の秋草の形容である。山一面の秋の草花が、雨にうちしおれた形状を、「まったく濡れぬ」と豪快に、一本調子に言い切った豪快さがある。

(<「現代俳句」山本健吉 著 > より引用)

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この文章を読んだとき、「豪快に」とか「豪快さ」という言葉に何か違和感を禁じ得ませんでした。(「草花が、雨にうちしおれた形状」について、なぜ豪快に言い切るのか疑問ですし、句には「濡れぬ」と書いてあるのに、なぜ「草花が、雨にうちしおれた形状」の形容なのかも理解できません。)

蛇笏自身が、「豪快さ」をこの句で表現しようとしたかも知れませんし、あるいは、まったく別のことを表現しようとしたかも知れません。それは不明です。

しかし、わたしが「豪快さ」などの言葉に違和感を禁じ得なかったのは、次のようなことを想像したからです。

草自体に、はたして、濡れるという感覚(事態)はあるのだろうか。
草に成りきってみれば、分かります。
自分が人間でなく、草だったら「濡れる」ということはないでしょう。草にとって、雨は太陽の光をあびるのと同じ恵みであるでしょう。だから、濡れるという自覚はない。濡れるというのは、人間固有の雨に対する見方、感じ方です。それもややマイナスの印象を伴います。(もちろん、太陽の光も雨の粒も、その強さが度を越せば恵みではなくなります。それは当然のことです。)

この句には、草は「濡れ」と書いてあるではないですか。草は「濡れない」のです。濡れるどころか、さんさんと降り注ぐ太陽の光と同じように、雨をいただいている。そういう草の世界がある。だから、蛇笏は、秋の草「まつたく」「濡れぬ」と言ったのではないでしょうか。豪快さどころか、草からすれば感謝の「まつたく」であり、実に感謝を持って、いただくばかりの「まつたくです。あるがままの世界の「まったくなのです。人間の相対世界を離れた「まったく」の世界です。

蛇笏なれば、そのような世界観を持ち合わせていたと信じたいと思います。大自然の中、秋の山の豊かな恵み。そういう雨なれば、まったく濡れるはずはない。秋の草はただ雨をいただくばかり。それを人間の立場から言えば、「秋の草まつたく濡れぬ山の雨」と言うしかなかったのです。

「濡れる」というのは、人間の言葉です。「言葉」つまり人間という限られた立場で切り取った世界です。すでにそこに人間の見方があります。「見方」、すなわち、「偏見」と言い替えてもいいでしょう。人間サイドに偏った言葉、人間の一方的な見方。草の立場からすれば、それは「偏見」だと言うに違いありません。

もっとも草は言葉をもちませんから、草は何も言いません。「まったく」のあるがままの世界に生きています。

言葉(俳句)には、発語者の世界観が自ずと表れ出てしまいます。そういう意味では、言葉(俳句)は、その人の世界観の表明、つまり思想の表明と言ってもいいのではないでしょうか。

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飯田蛇笏と中川宗淵老師について

わたしの若き日に読んでいた『無門関提唱』の山本玄峰老師(慶応2年~昭和36年没)は、龍沢寺(臨済宗の禅寺、禅の専門道場)の住職でした。その山本老師の法嗣である中川宋淵老師は、俳人でもあり、蛇笏の主宰する『雲母』の同人でした。その中川宋淵老師の法嗣は、鈴木宗忠老師で、その鈴木宗忠老師の座禅会には、わたしも若き日にお世話になった経験があります。中川宋淵老師と交流のあった飯田蛇笏の句は、そんな縁もあって興味深く詠ませて頂いております。
下の句は、中川宋淵老師の句:

不二見えてあの世この世の若菜摘む  中川宋淵

「山本玄峰老師」、「中川宗淵老師と俳句」に関する記事が、三島市HPにありましたので、参考までに下にリンクしておきます。

 山本玄峰老師

中川宗淵老師と俳句

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  言葉は世界観の反映 山本玄峰 中川宋淵 飯田蛇笏 秋の草まつたく濡れぬ山の雨

 わたしたちは、世界を自分なりに、人間的に受け止めているにすぎません。それをあたかも絶対の真理であるかのように思ってしまっているのです。結果、わたしたちは、この自分なりに、人間的に受け止めた相対世界の中で、生きていくことになります。

〈「美人」と見る人間だけの世界 -荘子の世界-〉参照

大げさに言えば、わたしの言葉は、わたしという「一宇宙」から湧き出てきた言葉であり、わたしという「一人一宇宙」の世界観の反映であり、わたしという「一人一宇宙」の思想です。

  言葉は世界観の反映 山本玄峰 中川宋淵 飯田蛇笏 秋の草まつたく濡れぬ山の雨