推敲について

推敲 言葉 丸山圭三郎 言語と思考 思い


自分の書いたブログの記事を読み返していると、何か違和感を感じたり、不満な箇所が見つかります。「これは、少し感じが違うな。」と思い、より実感に近い言葉を探します。

こうしていると、いつの間にか、記事を書いた当初は曖昧だったことが、はっきりと見えてくることがあります。自分が本当は何を思い、何を考えていたのか、徐々にその姿が浮き上がってきます。

どんな言葉を発するかは、自分で決めるしかありません。それは、他人には、本質的にできない事柄です。自分自身の内面は、他人にはのぞき見ることはできませんから。

この前も、過去の記事を読んでいたら、新たな「思い」が浮かんできたので、記事を書きかえました。「思い」とともに「言葉」は変わります。逆に、「言葉」とともに「思い」が変わります。ですから、自分自身の中から、より相応しい言葉を自分で探していくしかありません。
(そういう意味では、他人には推敲や添削はできません。内なる自己との対話ですから。)

そんな例として、下記の青字部分。(最初書いた文は、書きたい内容が曖昧だったの、青字の言葉に置きかえてみました。そうしたら、実は、これを書きたかったのだということが、はっきりとしてきました。

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(「一期に一会だけの俳句 -出合いの俳句-」)

天辺で夏の終わりを知るむくげ

ひとつずつ神に五感を返しけり

自然は、わたしたち人間の生も死も、よくご存じなのでしょう。そして、(その自然から)むくげは知らされます。「夏の終わり」は、「おわり」ではない、秋を迎える支度である、と。

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このように、自分で書いたブログの記事を読み返しては、「ちょっと違うなあ」と自問しながら、書き直しています。

これは、所謂「推敲」ですね。
通常、推敲は「A」という表現したい内容があって、その内容を表すには、どの言葉を選ぶのがいいかと考えます。「A」を表すには「ア」と言ったらいいか、「イ」といったらいいか? → よし「イ」にしようと決め、推敲が完了します。

これは、「A」という固定した内容が、既に存在しているという考え方がもとになっています。

しかし、実際はこれと違います。言葉を変えるということは、表現したい内容そのものを変えることになるからです。つまり、言葉を変えるということは、「A」という内容そのものを変質させることになるのです。

(実際は、)「A」という内容そのものが曖昧だったために、適切な言葉が見出せなかったというのが本当ではないでしょうか。この曖昧な内容を、もっと鮮明にはっきりさせるために、つまり「ア」と言ったらいいか、「イ」といったらいいかの選択が必要になります。この選択を通して、漠然としていたものがはっきり見えてくる、明らかになってくるのです。


言葉は存在を喚起する*と言われます。(*丸山圭三郎:ソシュールの言語思想を研究。言語学者・哲学者)

したがって、「A」という内容は、もともとは漠然としたものであって、「A」という内容そのものが、最初から明らかに在ったわけではないのです。
言葉の選択という行為をとおして、表したいものが見えてきます。言葉によって、はじめて、その存在が姿を現してくるということです。これは、言葉による創造です。言葉によって、はじめて「A」の内容が、はっきりと姿を現してくる。言葉によって、はじめてその存在が喚起されたのです。

漠然と「A」みたいなものと思っていたものが、実は言葉を選び、言葉(または言葉の組み合わせ)を創造していくうちに、実は「A’」であった、あるいは「A”」であった、あるいは実は「α」であったというように、その存在が露わになってくるのです。

彫刻家が魂を込めて、ひと鑿(のみ)、ひと鑿鑿を当てることによって、はじめて表現したいものが、そこに作品として姿を現してくるのに似ています。(このようなことを小林秀雄が書いていたのを読んだ記憶があります。)

最初からその姿が決まっているとしたら、最初から機械にそのとおりに削らせればすむことです。彫刻家が魂を込めて、ひと鑿(のみ)、ひと鑿を振るう必要はなくなってしまいます。

(*ところで、言葉には強引さが伴います。命名の強引さについては、「そう。 この不思議がいい!」で述べました。ゆえに、念入りな推敲が必要になるのです。)

むずかしいことになってきてしまいましたね。「いろは」自身には手に負いかねる問題です。先ずは「いろは」の問題提起と言うことで、この記事を終わりにしたいと思います。