「境目」はどこにあるのだろうか? (1)

「境目」はどこにあるのだろうか? (1)


 わたしは毎朝、寝床に横になったままで、なかなか起きられません。もう少しもう少しといって、起きるのを先延ばしにしています。しかし、最後にはいつしか起き上がっているのです。

 わたしはどの時点で起き上がったのだろうかと、いつも疑問に思うのです。もう少しもう少しと先延ばしにしていた状態から、起きるという行動が、どの時点で発生したのか。その「境目」です。毎朝、この不思議を思いながら、起き上がります。

 ということで、今日は「境目」の問題。境ということをこの10年間ずっと考えてきました。

 いつか起き上がろうと思っていても、ぐずぐずしていていつまでも起き上がらないのに、いつの間にか起き上がっているではないですか。いつ起き上がることが実行されてしまったのか。その起点が分からない。どの時点でそれが起こったのか、その「境目」が特定できないのです。

 この「境目」の問題を10年間程持ち続けてきて、現時点で考えることができたのは、おおよそ次のようなことです。

 この一連の流れ、つながりの中に起点や境目を見つけることはできないのではないだろうか。境目らしい、それらしい範囲はあるかもしれません。しかし、特定できる境目や起点はないのではないかと思います。おそらく境目はもともとなかったのだろうと。

 星空の雫ちりばめ葡萄棚  いろは
 ほしぞらの しずくちりばめ ぶどうだな

 身近な自分と環境の問題について考えてみると、朝の起床の動作と同じことが、自分と周りの環境についても言えるのではないか。自分と自然環境との間に境目を見つけることはむずかしいのです。

 環境、例えば身体の外にある水が、のどを通って身体の中に入ってきます。まるで透明人間のように、環境と人間とがお互いに行き来しています。自分ではないと思っていた水も自分の身体に吸収され自分になっていく。そして、自分の身体から去って行きます。



 その水のどこからが自分で、どこからが自分ではないと、境目を決められるでしょうか。決められないとすれば、環境との連続体が自分なのだなあと、思われてきます。自分の身体は環境からできているようなものです。環境自身なのかもしれません。

 食物で言えば、豚肉を食べるとわたしの身体に吸収されます。この吸収された豚肉の成分はわたしでしょう。豚が、わたしのなかに侵入してきています。わたしと豚の境はどこにあるのか。豚ばかりではありません。様々な植物・動物がわたしの身体に入ってきます。もう全てわたしの身体は、動植物で満たされてしまっているでしょう。わたしの身体は、どこに行ってしまったのでしょう。このように環境と自分とは行き来していて、境目がありません。

 人間は空気を吸うし、水を飲むし、植物や動物を食べます。このことからも、人間は、周りの環境と一続きであるということが分かります。境目がない。自分の中に大自然が浸透し、自分の中を大自然が通過している。

 自分というものは本来なかったのか。あるのは環境だけで、自分の身体は環境そのものであったのでしょうか。そうならば、見つけようとしても境目が見つからないはずです。

 自分という存在の構成要素はすべて大自然から成っているのではないでしょうか。この恩恵の中で人間は生きていられるのではないでしょうか。人間自身が、大自然そのものであると言ってもいいのではないでしょうか。

 環境と一つながりの自分なら、環境を破壊することは、自分の身体を自ら壊しているのと同じです。

 しかし通常、人間の意識は、自分を周りの環境と分けて考え、人間と環境に「境目」を設けています。そして、環境と自分とは、別ものであると考えています。皮膚で囲まれた内側が自分であり、その外側は自分ではないと。

 「人間は環境の一部」ということを言います。しかし、人間は環境の部品ではありませんから、「一部」ではないでしょう。上の境目の問題から考えても、環境と一続きの存在であると言えますから、「環境こそ自分だ」と言ってもいいのではないでしょうか。

 環境を傷つける。環境に負荷を加える。「環境は人間そのものである」とすると、この傷は、自分への傷となり、環境への負荷は、自分への負荷となって、自分を圧迫し苦しめることになります。環境の傷は、自分自身の傷であったと。

 墓石の傾きやまず流れ星  いろは
 はかいしの かたむきやまず ながれぼし

 本当のことはどうなのか、わたしには分かりません。こんなとりとめのないことを時々妄想しています。

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