わたしはいつからわたしになったのか? -「境目」はどこにあるのだろうか? (2)


 前回「境目」に関してのわたしの妄想を記しました。その続き。 今回は、自分の誕生における「境目」についての妄想。

 母親と自分との境目も、わたしにはよく分かりません。自分はいつ母親と分離して、誕生したのでしょうか。
 母親のお腹の中で自分は自分になったのでしょうか。お腹から出てからはじめて自分になったのでしょうか。あるいは、自分を意識した思春期から自分になったのでしょうか。成人式をしてから自分になったのでしょうか。

 あるいは、受精した瞬間に自分になったのでしょうか。仮に受精した瞬間から自分になったとするなら、その瞬間はいつどうして生じたのでしょうか。生ずるためには、そのための準備期間があったはずです。準備期間がなかったとするならば、受精自体も生じなかったはずですから。

 準備期間が受精の前にあったとするなら、準備期間に自分はすでに連なっている存在であった。つまり、受精の前に既に自分は用意されていたことになります。受精する前から自分の存在は準備されていたことになります。

 こう考えると、自分はいつから自分になったのか、その境目が分からなくなります。分からないのではなくて、境目はないのではないか。全てはことごとく連なっている。こんな妄想が渦巻いています。(だとしたら、それまでの時間は何だったのでしょう。これからの時間は何なのでしょう。)


 この自分の誕生ということについても、自分と自分でないものとの境目は、本当はないのではないかと。

 夜空の星をじっと眺めていると、なぜか心が落ち着きます。やがて心が安らぎを覚えます。自分の故郷に帰ったような。この星を見ているのは、今、この世界でわたしひとりだけなのです。このわたしのためだけに、この星は姿をみせてくれていたのだと思える瞬間があります。

 星屑の光染み入る苔清水  いろは
 ほしくずの ひかりしみいる こけしみず

 以前に「 少年の澄みゆく涙春の星」*で書きました。少年の頃見た夜空の星は、自分自身と一つながりにつながっていたと。自分の姿を遠い星に見た、遠い星から自分の姿を見たと。

 わたしの存在への信頼があり、逆に、存在のわたしへの信頼がある。わたしが大自然を信頼していて、大自然もわたしを信頼している。このつながり。そういうものを感じます。

 前にもどこかで書いたかもしれません。「詩の鑑賞」でも同じようなことを書いていたかもしれません。

*「 少年の澄みゆく涙春の星」リンク