「美人」と見る人間だけの世界 -荘子の世界-



 われわれは、世界を知っていると思っています。つまり、世界を正しく捉えていると思っています。しかし、本当にそうでしょうか。

 荘子を読んでみます。

荘子
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毛嬙(もうしょう)・驪姫(りき)は、はだれもが美人だと考えるが、はそれを見ると水底深くもぐりこみ、はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す。この四類の中でどれが世界じゅうの本当の美を知っているということになるのか。 (岩波文庫『荘子』)

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*「毛嬙(もうしょう)」「驪姫(りき)」は、古代の代表的な美人。

 毛嬙と驪姫は、人間の前にだけ、美人として現れます。

 もし人間という限られた立場を離れるならば、たちどころにそこに美醜はなくなり、この価値は消失してしまいます。

 魚・鳥・鹿には、毛嬙も驪姫も、到底美人とは思えない、不気味な醜い恐るべき存在に見えてしまうことでしょう。(同様に、是非善悪などの価値も人間に対してだけ存在するものであり、相対的なものです。人間という限定された立場を離れるならば、これらの価値の差別はたちまち消失し、そこには美醜もなく善悪もない絶対の世界が現れます。)

 人間は、毛嬙と驪姫を仮に美しいと思い込んでいるだけです。しかし、本当にそう思い込んでしまっているのです。そこから抜け出せない運命の中にいるのです。このように、人間は、人間の世界にしか通用しない、人間的に受け止めた世界を生きています。

 わたしたちは、世界を自分なりに、人間的に受け止めているにすぎません。それをあたかも絶対の真理であるかのように思ってしまっているのです。結果、わたしたちは、この自分なりに受け止めた相対世界の中で、生きていくことになります。

 この荘子の考察は、われわれに何をもたらすのでしょうか。

 例えば、こんな詩もあります。

金子みすゞ 「大漁」
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朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ。

浜は祭りの ようだけど
海のなかでは 何万の
鰮(いわし)のとむらい するだろう。

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 このような、人間の気づかない、思ってもみない異次元の世界がすでに存在しているかもしれないのです。

 いや、この人間の同一次元の世界の中にも、すでにこの二つの違う世界が同居しているのではないでしょうか。一方の人々にとっての大漁の喜びが、一方の人々には喪失の深い悲しみとなるような二つの世界が。

 先ほどの荘子は、「美」について、この詩は、「収穫と喪失(喜びと悲しみ)」について、それぞれの立場の違いによる見方感じ方の違いを述べています。


荘子の考察の示唆するもの

 荘子の考察は、「生」と「死」の問題をはじめ様々な問題に関して、われわれに何らかの示唆を与えてくれるように思えます。

 これに類似したことを、今までこのブログに書いてきました。ブログのタイトルをあげると・・・・・

そう。 この不思議がいい

ひとりひとつの世界

相対世界に生きる「プラス・マイナス・ゼロ」の世界

(「生ということを言うと、死ということを言うことになります。何も命名しなければ、生も死もありません。生も死も本来ない。あるのは、ただあるがままの世界です。」などと書いてきました。)

相対世界を生きる

 例えば、A氏はずうずうしい人間で人から嫌われているとします。
 しかし、このずうずうしい人間としてのA氏は、本来存在しません。
 本来存在するのは、A氏というただあるがままの存在です(それをA氏と呼んでいいかさえ分からない存在です)。あるがままの世界です。(人間の評価・色づけ以前の世界です。)

 しかし、あるがままの世界が本来の世界であるからと言って、人はずうずうしいA氏をそのまま受け入れることはできません。人間は相対世界の中に生きているのですから、本来のあるがままの世界を生きることはできませんから。(人間が、毛嬙と驪姫を美人と思い込んでしまっているのと同様に。)

 尺度のある相対世界に生きる人間にとって、良識のある礼儀正しい人間に比して、ずうずうしい人間は、一般的には許しがたい存在です。ですから、ずうずうしい存在であるA氏をそのまま受け入れることはできない相談です。

 それなら、「A氏を許せない、自分という人間がいること」、それを受け入れたらいいでしょう。それなら受け入れやすいでしょう。自分自身のことですから。

 そして、この正義感の強い、良識ある礼儀正しい自分も、実は、本来は存在しないものであり、存在するのは「ただあるがままの世界(人間の評価色づけ以前の世界)」であると、そういうふうに考えてみたらどうでしょうか。

 このように、荘子の見方考え方を使ってみることができます。

 こう考えることによって、A氏がずうずうしい人間であったとしても、自分のA氏を見る気持ちや気分は、随分と軽いものとなるのではないでしょうか。

 「A氏を許せない自分」そういう自分も絶対的なものではなく、相対的な存在である、と思うことができますから。荘子の見方考え方によって、A氏を許せない自分を、相対的に、距離をおいて、眺める視点を獲得できます。

 花野なるひととき軽き歩みかな  いろは

 正義派の自分かも知れませんが、こう考えることによって、A氏のことを少しは思いやる余裕もできてくるかも知れません。A氏に対する誤解や偏見に気づくことがあるかも知れません。
 これなら、できる相談になるのではないでしょうか。


 正義派の自分であっても、正義も威張り始めると(傲慢になると)、悪に転じますから。悪いことをした人だって、心から悔い改めれば、善に転じていきますから。
 善も悪もともに、どう展開するか、どう転落するか、どう飛躍するか、それはだれにも分かりません。そういう相対世界に、そういう転ずる世界に私たちは住んでいるのですから。

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 何かわけの分からないことになってきてしまいました。

 こんなわけの分からないことを、時には妄想する今日この頃です。わたし「いろは」も、誤解して他人様にいろいろ迷惑をかけているかもしれません。そして本当のことはよく分からないままです。しかたがないので、

「ひねもすのたりのたりかな」とただ生きているだけです。

 しかしながら、いつも思うのは、この分からないということは、それほどわるいことじゃないということです。

 人が分かってしまったと思う世界というのは、限られた狭い世界です。それは、偏狭な世界です。

 分からないからこそ、つまり世界を限定しないからこそ、より広い世界へ出られる可能性が生まれる。つまり、より自由の身になれる。次の広い世界へはばたくことができる。


 毬栗の思ひの丈を開く空  いろは

  いがぐりの おもいのたけを ひらくそら