
人間はだれも「思い想う」ことから逃れられません。だれもが、自分の「思い」を持ち、もの「想う」存在なのです。人はみな「思想家」であったのです! だれもこのことから逃れることはできません。だとしたら、より普遍性のある思想に目覚めるのが良いと思いませんか。
テレビの「100分で名著」という番組に出演していた伊集院光さんが言っていた言葉が、面白かったので紹介しておきます。伊集院さんの言葉:
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『結婚したばかりの頃、かみさんと議論になった。ぼくは弁が立つから、理屈を言って通した。そして、「君の言っていることは、理屈が通らないだろう。」と言った。
その時、かみさんは、
「じゃあ、理屈じゃないけど、『好き』っていう感情が人間にあるっていう理屈はないの?」
って言いました。その時には、素直にぼくは「負けた」と思いました。なるほどと。理屈を言うタイプじゃないかみさんが、考えに考えて出した話なんです。』
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ここで思ったのは、わたしのような、あまり哲学や学問の素養もない「ど素人」でも、実は一人の「思想家」なのではないか、ということです。
むしろ、「ど素人」だからこそ、本来、切実に「思い想う」ことができるのではないか? とさえ思えます。
上記の伊集院光さんの「かみさん」も、その「思想家」の一人なのではないでしょうか。人間である限り、「思い想う」ことから逃れることはできません。だれもが、自分の「思い」を持ち、もの「想う」存在なのですから。そう元来、人はみな「思想家」であったのだ! と。
その人の思い想ったものが、その人の思想*でしょう? だれもこの「思い想う」ことから逃れることができないのなら、いっそのこと、より普遍性のある思想に目覚めるのが良いと思いませんか。
普遍性のある大らかな思想は、その人の考えや感性をもっと広げて豊かにします。人生が面白くなるのは当然です。偏狭な考え方によって、自分自身を狭い世界に閉じ込めておくことはないのです。普遍的な思想は、自分自身をより広い世界へ解き放ちます。
『シモーヌ・ヴェイユ「労働者に必要なのは詩だ」』の記事で述べたように、だれもがある意味「詩人」でありますが、この「思い想う」ことの中に詩的な世界を感じることがしばしばあります。
* ここでわたしが言っている思想は、「~主義」というような既成の主義主張としての思想ではなくして、もっと素朴な、思い、願い、想う響きのような自分自身に根ざした思想です。
「~主義」などを入口にすると、どうしても原理主義(言葉主義)に陥る危険をわたしは感じてしまいます(経験の裏付けのない言葉主義、それを鵜呑みにしてしまう危険性を感じます)。
その前に、もっと、自分の経験という現場や自分自身の実像や実態をよく見つめて、それらの中から自分自身の本当の「問い」を見つけて、それを持ち続けて、あせらずゆったりとした歩みの中から自然に形成される「思いや想い」「願い」がその人自身の本当の思想になるのだと思います。
それらをとおして、開かれた自分の生き方を探究し描き出す、これほど素晴らしい創造行為はないと思います。しかも、だれもが日常「いつでもどこでも思い、想っている存在」なのですから。その結果、普遍性のあると本心から認められる「~主義」に出合うことがあったら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
至らない自分を、無理に背伸びしてよく見せようとする必要もなく、自分は徳のある人間だと気張ることも要りません。かといって自分を取るに足らない人間だと卑下する必要もありません。
そういう世界から解き放たれて、素直にこの今の自分自身から出発すること、これが一番困難なことなのかも知れません。
既存の思想(他人の借り物の思想)は、面白くないけれど、自分自身の「思い」や「想い」、「願い」を織り成して、この響き合う「思想」という自分自身の世界を創っていくことは、実に面白くて味わい深いことだと思います。
*わたしの場合は、野外を歩きながら、俳句を声に出して読んでいた時、突然その句が心に鳴り響いてきました。その詩の響きから「思想」というものへの着想を得ました。そこがわたしの「思想」への出発点で、わたしは、今この歩みを一歩踏み出したばかりです。もう30歩も先を行く先達もいらっしゃると思います。しかし、そういう比較をしても意味をなしません。これは、「自分事」ですからね。 (その経験を次のリンク記事に書きました)
『胸に熱く響く 金子兜太の句 「一人一宇宙」から湧き出てきた言葉 』
このことは、詩の言葉が、それまで眠っていた存在を目覚めさせた、と言った方がいいかもしれません。言葉は、存在を呼び起こします。作品は作者の手から離れて生きていくと言います。作者の手を離れた詩作品がその生命をじっと保ちながら、わたしの中に新たに創造され蘇って来たのです。 (下記リンク記事参照。)
『詩の鑑賞 ・2 〈いろはno思いこみ鑑賞〉論(2) 』
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最初に述べた伊集院光さんの「100分で名著」。その時の名著は、もとは精神科医であったドイツの哲学者ヤスパースの「哲学入門」という本でした。
ヤスパースの「哲学入門」という本は、今から半世紀程前に、わたしが高校時代に読んだ本でした。既にギリシャ哲学のプラトンの対話篇はほぼ読み終えていましたので、改めて哲学とはどういうものなのかを知りたいと思い、新潮文庫のこの一冊を手にしたのでした。
懐かしい思い出のこの本を物置に探しました。在りました。今では内容はすっかり忘れていますが、1フレーズだけは今も覚えています。ページをめくっていくと、赤鉛筆のサイドラインがあったり、それを上書きする万年筆の青い線があったりしました。丁寧に何回も繰り返し読んでいたようです。当時は、学校の勉強はしないで、こんなものばかり読んでいたような気がします。

これが所謂「哲学」へのきっかけを作った本となりました。
その後ベルクソンの『形而上学とは何か』という本を、高校の友達とわたしの部屋で一緒に読み合い、語り合った懐かしい思い出もありました。
その後、ラッセルの「西洋哲学史」全3冊や波多野精一の「西洋哲学史要」などで西洋哲学の歴史を一通り概観しました。その後に、デカルト、パスカル、キェルケゴール、ニーチェ、そして当時書店に並んでいた現代の哲学へと進みました。同時にキリスト教の理解も不可欠なので聖書も併読していました。やがて、文学や芸術作品へと興味が移ってしまい、いつしか西洋哲学から離れていきました。
そんな哲学へのきっかけを作ったのが、ヤスパースの「哲学入門」という本でした。

写真:カール・ヤスパース夫妻と鈴木大拙(1953年)
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